ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

第l章郡名新しい時代の幕開け第V-17表県内の郡別船舶数(明治18年12月)西洋型日本型500 500蒸汽風帆鮮海漁川船小及廻船び石以上む未満東茨城2。。。1321西茨城。。。。13那珂。2 1 6 1326久慈。。。。506多賀。。。2 563鹿島。。。。2725行方。。。。2769新治。。。。1574信太。。。。907河内。。。。1693筑波。。。。真壁。。。。結城。。。。岡田。。。。豊田。。。。214西葛飾。。。。猿島。。。。北相馬。。。。「茨城県統計書J明治18年より作成.下の主な河岸問屋は、諸河岸の水運事業者の内国通運への加盟を促進す575岸(石岡市)の笹目八郎兵衛はじ三め九軒の河岸問屋など茨城、千葉両県この太政官公布をうけて、明治九年(一八七六)十一月に、新治郡高浜河や河岸問屋にたいして、陸運元会社の支社として加盟するよう命じた。新政府は明治六年太政官公布第二三O号によって、全国各地の陸運業者開始し、東京小網町(東京都中央区)に出張所を開設しているこ。の間、業を開始した。ついで六年六月には、利根川および荒川でも廻漕事業を鬼怒川上流の阿久津河岸(栃木県宇都宮市)に内国通運が出庖して廻漕事対賃銭で人馬継ぎ立てを行わせることとした。水運の分野でも、八月にの駅制及び伝馬制度を廃止し、各地の宿問屋に陸運会社を設立させ、相あいは認められない。させる内国通運会社の前身である。ついで、同年九月、新政府は諸街道に六隻見られるほかは、多賀郡に二隻認められるに過ぎず、鹿行二郡に元会社を設立した。}れがのちに蒸汽船通運丸を就航治宝通船事業これは沿岸航路の風帆船と考えられる。五OO石未満でも、那岡湊内国通運と母体として、全国的な物資輸送事業の発展のため、陸連対して、日本形船船では、やはり那珂郡に五OO石以上が一隻見られる明治五年(一八七二)、明治新政府は近世の江戸定飛脚をを含む県下のほぼ全域では、いまだ西洋形船舶は認められない。」れに道構想の頓挫や計画変更と結びついてゆく。は、那珂湊を擁する那珂郡や東茨城郡にわずかに見られるが、鹿行二郡るという側面もあった。それは、大正期に入って、相次ぐ行方郡縦貫鉄舶数(免税船を除く)をまとめもたのである。それによれば、西洋形船舶根川、霞ヶ浦、北浦の水運も、長期的には鉄道の導入を間接的に阻害すまた、第Vl口表は、明治十八年(一八八五)における県下各郡別の船このように幹線鉄道と結びつくことで、短期・中期的には発展した利正末期まで旅客数、貨物発送ともに大きな減少を見なかった。道に代わる近代的な旅客輸送の担い手として機能した。ものであった。また、第V1日表を見るかぎり、霞ヶ浦・北浦航路は大どが投入した蒸汽船は、」のような小廻船による物資輸送とは別に、鉄駅構内に隣接して設けられた船ふはだま溜りは、そのような機能を具体的に示すいても、二郡の物資輸送の大半を担うものであった。また、内国通運な鉄道網に結びつけるものという新たな機能を与えられた。土浦駅や佐原などの遊覧船稼ぎに進出した農間余業の耕作船に相当し、明治以降にお網から取り残された鹿行地域を佐原、高浜、土浦各駅を接点として幹線鹿行二郡では、小廻船などが多数を占めるが、}れらはかつて木下茶船下利根川、霞ヶ浦、北浦一帯に展開した近代水運は、まさに幹線鉄道に多くの船舶を有することが認められる。}のように、潮来地方を含む鉄道開通u水運衰退という図式は一律に当てはまるものではなかった。しかし、「鮮漁船井海川小廻船」という区分では、鹿行二郡が圧倒的