ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代その際の約定によれば、太政官公布によりることを申し合わせている。現水陸運輸を業とする者は内国通運に入社するか、または官許を得て営業近すべきであるとし、いまだに官許を得ず営業している者に対しては加盟V各社(河岸問屋)から説諭し、なおも了解しないときは官の処分を仰ぐとしている(明治九年十一月「茨城千葉両県下社中申合約定書」)。近世後期になるム」、いわゆる新河岸が形成されたり、利根川水系の支川や湖沼の漁船、耕作船が物資輸送に参入し、既存の河岸や河岸問屋にとって大きな脅威となった。旧来の河岸問屋は、維新後も内国通運の傘下に結}のため、集することで、水運業における主導権の維持をめざそうとしたのである。この約定に参加した河岸問屋のうち霞ヶ浦・北浦周辺の者は次のとおりである。(茨城県)新治郡高浜河岸笹目八郎兵衛同郡土浦町尾形儀兵衛茨城県小川川岸仁平茂左衛門同井崎忠介鹿島郡大船津粕谷弥助同郡鉾田村田山三郎兵衛河内郡生板藤蔵川岸大野庄十郎同郡伊佐津村坪井吉左衛門同郡須賀津村高須作右衛門信太郡木原町栗山良助同郡江戸崎村田中忠兵衛同郡下君山村吉原新兵衛(千葉県)香取郡佐原村同郡小見川村伊能茂左衛門高橋誠次郎576利根川水運の主要な河岸の一つである潮来からこの約定に参加する回漕庖がないのは、近世以来の潮来河岸が茶船と観光業に依存し、物資輸送拠点たりえなかったことによるものと考えられる。しかし、茨城県内では内国通運に加盟しない水運業者も増加し、明治十五年(一八八二)の『茨城県勧業年報第二回』は「追々水運ノ業ヲ拡ムルノ状況アリ。既-一客年各地新タニ河岸場ノ開設ヲ許可セシモノ四ヶ所アリ。又汽船ノ運搬アルニ依リ、水運ノ便ハ益々盛」であると評している。江戸を中心とする経済圏を形成し、東廻り海運とも利根運河の建設結びついて発展した利根川水運に、新たな変革をもたらしたものは、大久保利通の率いる内務省が推し進める殖産興業政策であった。大久保は、「万国対峠・富国強兵」という国家的課題に沿って、圏内産業を強化育成するために、その基盤となる圏内輸送網の再編強化をめざした。そして、圏内に幹線鉄道網を構築する一方、それが完成するまでの聞の物資輸送を、沿岸海運と内陸河川に受け持たせることとし、その整備を図った。その施策の一つに、利根川と東京湾を結ぶ運河構想があった。また、舟運の便宜を重視した利根川の大規模な河川改修事業も実施している。明治十一年(一八七八)三月六日、内務卿大久保利通は「一般殖産及士族授産ノ儀伺」を太政大臣三条実美に提出した(『利根川百年史』)。の中で大久保は、東北諸港及び新潟と東京を結ぶ内国輸送網の拡充を図るため、印施沼と東京湾を結ぶ運河の建設をはじめとする土木事業を提唱した。この計画の大半は、大久保の暗殺によって中止されたが、同十七年五月、茨城県知事人見寧はこれを引き継ぎ、「利根川江戸川間ノ連接」