ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
など「茨城県五大工事」を太政官に建言した。それによれば、下利根川から東京へ行く船舶が関宿(千葉県関宿町)を迂回していることは甚だ不かむら便であり、利根川中流の千葉県側にある、三ッ堀(岡野田市)から加村(同流山市)まで運河を建設することで解決するとしている。明治十八年六月、運河建設案は内務省の支持を得て、茨城、千葉両県の協議が成立し、実施に移されることとなった。ついで同二十年四月に利根運河株式会社が発足し、社長に人見寧が就任し、筆頭理事にはもと北相馬郡長で運河計画の実現に熱心な広瀬誠一郎が就任した(「広瀬誠一郎履歴」)。利根運河は、利根川と鬼怒川の合流点に近い千葉県東葛飾郡田中村船戸(千葉県柏市)と江戸川沿いの千葉県東葛飾郡新川村深井新田(千葉県-』うもん流山市)とを結ぶ全長約八キロメートルの本格的な問門式運河で、水路幅は五聞から一O問、水深は五尺余りで、最大八0トンの船舶の通航が可能であった。工事は、内務省御雇いのオランダ人技師ムルデルの設計書に基づいて、明治二十一年五月に着工し、同二十三年二月二十五日には早くも全線に通水され、三月二十五日には通船営業が開始された。開適当初は運河内での荷客輸送に鮮船を使用したので、積み換え荷役や乗客の乗換えに時聞を要したが、明治二十六年四月からは運河内外の直航が開始された。新しい時代の幕開けこうして運河の営業が開始されると、翌年には年間三七OOO般あまりの船筏が利根運河を通過するという活況を呈した。利根運河の開通によって、下利根川と江戸川の聞に川船を直航させることが実現し、航路も約四0キロメートルも短縮することができた。利根運河は、利根川及び震ヶ浦、北浦地方の産業振興を促すものとして、両県及び名望家層の第1章輿望を担って開業したものであり、新たに形成されつつある国内市場に常総地方の物産が参入する強力な手段になるものと予想された。一方、明治十年(一八七七)二月、内国通運は東京の石通運丸の就航と潮来地方川島造船所で内陸河川の航行に適した喫水の浅い蒸汽船を完成し、これを「第一通運丸」と命名した。通運丸は、旅客及び手荷物の運搬を行う外輪式蒸汽船で、内国通運ではそのしゅんせつ就航を見込んで、明治九年三月から利根川及び江戸川の航路竣諜を行っている。そして、同年三月二十一日、内国通運会社は、東京・大越(埼玉県加須市)聞に第一通運丸を就航させたのをはじめとして、利根川水系の各河川に通運丸を続々就航させた(『利根川汽船航路案内』)。下利根川方面では、明治五年に東京深川の西村七左衛門が蒸汽船利根畠ebmwAソ'uw川丸を関宿・銚子間に就航させ、内国通運も明治十年八月に木下(千葉県印西町)・銚子聞に通運丸を就航させ、翌月には東京・境(境町)聞にも就航させた(『千葉県史明治編』)。高浜河岸の有力な河岸問屋である笹目八郎兵衛家は、内国通運の分社となり、明治十年二月に内国通運と「汽船同盟」を取り結んで、第四通運丸の建造と運営を両社折半で行う}ととし、篠田家側は「高浜汽船会社」と称した(『石岡市史下巻』)。明治十年代の定期船航路開設と蒸汽船業者の興亡については、今後解明すべき点が多く残されているが、いずれにしても、内国通運は、の時期に下利根川、霞ヶ浦水域に基本的な航路網を展開して行った。の聞の潮来地方の諸河岸について、その動向を見てみよう。汽船客荷取扱人組合が刊行した『利根川汽船航路案内』は、当時の利根川及び震ヶ浦、北浦の主だった汽船寄港地のようすを記しているが、潮来汽船寄港場については次のように紹介されている。潮来汽船寄港場地577勢