ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代名所旧跡旗掛松(説明省略)現料理屈中屋近魚漁鯉、鮒、鱒、白魚、公魚V狩猟雁、鴨、羽白物産佃煮、川魚釜谷汽船寄港場地勢茨城県行方郡大生原村に在り、北浦の西岸に位す、南は水原に隣り、西は太田、大和両村に接し、東北は北浦に臨み、鹿島郡居合と相対す、戸数五十、人口三百を有す、此地、汽船の発着は延方に閉じチでF、通麻生三里、牛堀一里十八丁、水原二十五丁、延方一里、潮来一里二十丁名所旧跡大生神社(説明省略)料理屈中屋、島屋魚漁鯉、鮒、鰻、白魚、蝦狩猟鴨、羽白物産米、麦、大豆、佃煮、川魚内国通運が蒸汽船通運丸を利根川水系に投入し、定期船民間各社の汽船事業航路を展開して行く一方で、中小資本による定期航路も開設されていった。『利根川汽船航路案内』によれば、明治十五年(一八二)、航運会社が第一・第二いろは丸を就航させ、東京と佐原・小見川の聞に定期航路を開設したが、内国通運と競争に敗れて明治十八年には休業に追い込まれている。また、東京近郊でも、明治十二年六月に光通社が東京新大橋と行徳(千葉県市川市)の聞に光運丸を580就航させたが、十六年末には撤退し、内国通運会社が東京・行徳航路を独占することになった。このように、中小業者による定期航路事業は、その萌芽の段階で内国通運をはじめとする大手事業者との競争を余儀なくされ、明治中期には淘汰再編が行われた。下利根川筋でも、明治十四年に笹目八郎兵衛家の高浜汽船会社が第一・第二高浜丸を就航させ、さらに「豊通丸」を所有する小川の井崎雄三郎回漕庖と合併して、「高浜・小川共同汽船会社」を設立し、加村河岸の元河岸問屋である秋谷平兵衛家、青山河岸(千葉県我孫子市)の小谷与右衛門家、東京日本橋の小林新七らと業務提携を結び、内国通運の航路展開に対抗する構えを見せた(『石岡市史』下巻)。また翌年一月、銚子汽船会社は、所有する蒸汽船銚子丸を銚子・木下聞に隔日往復の体制で就航させた。銚子汽船株式会社は、前年に醸造家岩崎重次郎や浜口儀兵衛など、銚子財界人の協力によって設立された汽船会社で、)の年の八月からは第二銚子丸も投入して、毎日運航の体制を確立した。これは木下河岸で、行徳から下総台地を越えてくる木下街道と接続し、東京から下利根川方面への便をはかるもので、近世の木下茶船の集客方法を踏襲したものであった。銚子汽船は、この八月に木下河岸の吉岡田漕屈と同盟し、翌年八月には内国通運会社とも締約し、従来の銚子・木下航路を上流の=7堀(千葉県野田市)まで延長し、内国通運、吉岡田漕居、銚子汽船の三者による東京・銚子間連絡航路を開設した。これは、内国通運が東京・西深井(千葉県流山市)聞を運航し、西深井・一ニッ堀聞は陸路連絡するというもので、近世における中利根川流域で盛んに行われた、船積み荷物の付け