ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

越しルlトをほぼ踏襲したものであった。一方、当時の北浦、震ヶ浦方面には、高浜汽船会社の高浜丸や吉岡回漕屈の銚港丸のほか、信義丸、開運丸、銚浦丸などの中小汽船会社が競合し、「乳蝶の勢いを成」していたと言われる。また明治二十一年には銚子汽船が北浦航路を開設し、ついで二十三年には霞ヶ浦航路も開設した。明治二十年代以降は、利根運河の開通を背景に、内国通運及び銚子汽船を中心に下利根川、震ヶ浦、北浦方面の汽船事業の再編成が進行していった。明治二十三年(一八九O )に開通した利根運河では、明汽船事業の再編成と衰退治二十六年四月からは運河内外の直航が開始された。明治二十八年一月、内国通運、銚子汽船、吉岡廻漕庖の三者は銚子・東京聞に相互二回の直航便運航を開始した。}れは総武鉄道が銚子まで延長される形勢を見越し、}れに対抗するための措置であった。事実、明治三十年六月には総武鉄道が銚子まで開通し、}れ以降、銚子汽船は鉄道との競合に腐心することになる。明治三十五年五月、内国通運と銚子汽船は、同盟運航を行ってきた吉岡廻漕屈の営業権を買収し、銚港丸四隻を分割所有した。両社はさらに、四十一年には吉岡汽船所有の船舶を分割買収した。吉田汽船は、銚子の新しい時代の幕開け醤油醸造業者浜口儀兵衛家に関連する汽船会社で、はじめ銚子・土浦間に航路を開設したが、内国通運及び銚子汽船の同盟運航に対抗できず、撤退を余儀なくされた。また、高浜・小川共同汽船会社も明治二十二年に水戸鉄道が小山・水戸聞を開業させ、翌年には日本鉄道が、土浦線の友部・田端聞を開業させたことによって、客荷の輸送が激減し、ついに第l章明治二十五年十二月に廃業するに至った。了フして、明治中後期には、内国通運及び銚子汽船の同盟関係を軸に業界が再編淘汰されていった。581