ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代とが明らかになり、『文部省第四年報』の記録内容に対応することにな現る。大洲小学校は、最初は私立小学校として認可されていたが、「明治近九年ヨリ十一年十二月迄御用留」によると、明治九年十二月には「公V立小学校設立願」を茨城県権令中山信安宛に提出し、明治十年一月二十七日付でこれが許可されている。}の時の名称は大洲小学校であり、学校の敷地は大洲村五四O番地の村持地であった。教員は石津平次右衛門であり、平次右衛門は土浦町の師範学校に入校し、}の時には小学科卒業免許状を取得していた。『行方郡教育史』などには大洲小学校が明治十年に開校したと記録されているが、明治九年には私立小学校として創立されていたのであった。学制の時期における小学校の教育は、実際にどの小学校教育の実際ように行なわれていたのであろうか。小学校で教授すべき内容については、明治五年に文部省から小学教則概表が出され、翌年には改正小学教則とその概表が出されている。各県ではこれらを基準にしながら県の教則を作成した。第Vim表および第Vl幻表は、新治県を合併して新しい茨城県が発足した後、茨城県から出された「茨城県小学通則」につけられた教則概表である。布達されたのは明治九年五月であった。教科としては、下等小学が読物、書取・作文、問答、算術、習字となっており、この中で読み・書き・そろばんに加えて地理、歴史、生物、地学のような内容の学習を行なった。上等小学になると、教科が読物、作文、数学・簿記、習字、罫画となり、下等小学の内容を高度化するとともに経済、物理、化学などの内容も学ぶようになっていた。前に掲げた大洲小学校から明治九年十二月に茨城県へ提出された「公立小学校設立願」によると、教則については「御規則通り」と記入されている。}のように多くの内容を教授することが、規定され586とにかくていたのである。しかし、規則はきっちりと作られていったが、児童の就学率がなかなか上昇しないのが現実であった。明治九年から明治十二年にかけての茨城県の就学状況をみると、男子が五Oパーセントから六Oパーセント、女子が一五パーセント前後というところであった。特に茨城県の場合には、全国の数値と比較すると女子の就学率が非常に低かった。貧困に起因するもの、また女子に学聞はいらないという観念などが、低い就学率の大きな原因になっていた。明治十年前後に潮来小学校へ二年間通った小川とくは、「どこの家でも習わせず、女に学問をさせたら生意気になるとか、男をあごで使うとか天下を取られるとか、あまりにも今の世の中からは解釈しきれない理屈であったようです。」と述ぺている(潮来小学校創立百周年記念事業実行委員会『創立百周年の菜』)。また小川は、同誌で「学校というものの珍しさにひかれて入った」という感想も述ぺている。潮来町域における当時の就学状況を示す史料はきわめて少ないが、大洲区有文書のなかに明治九年十二月の状況が記録されている。それによると、大洲村は戸数が六九戸、人口が四三三人であり、学齢人口は男四七人と女三三人の合計八O人であった。このうち、男子三九名と女子五名が就学していた。就学率を計算すると、男子が八三パーセント、女子が一五パーセント、合計で五五パーセントとなる。茨城県の数字と比較すると男子は大幅に上回り、女子は県平均と閉じ程度であった。ここで、学制の時期における試験制度についてまとめておきたい。小一つの級は原則と学校は下等、上等それぞれ八級に等級が分れており、して半年で履修することになっていた。半年が過ぎると卒業試験を実施