ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代現近Vし、基準以上の成績を収めると卒業証書が授与され、次の級へ進級でき588る仕組になっていた。試験の具体的な方法については何度かの改正が行なわれているが、明治九年五月に茨城県から出された「生徒試験法」によると、試験は六か月ごとに実施し、長寄り三四校の教員と、その区の学事関係者は必ず立会うことや、生徒の父兄には努めて参観させることと規定している。また、下等小学すべての課程を卒業する時に行なう大試験の時には、茨城県学務課の吏員や師範学校の訓導らが、必ず立会っ学制期の教科書『絵入智恵の環』て実施することとなっていた。大洲区有文書のなかには、定期試験や大試験に関する史料が残されている。第vn表によると、四O名余りいた児童のうちの八割以上が受験していること、及び各級にわたって多様な児童がいたことがわかる。また二月の試験で合格した児童の多くが、八月の試験では一つ上の級に合格していることも読み取れる。八月の試験の時点における大洲小学校の児童総数は男子三九名、女子三名の合計四二名であった。そのうちの三三名(うち女子二名)が受験し、二二名が合格している。合格者の内訳は、一級が一名、三級が四名、四級が六名、第V-30図五級が八名、六級が三名であり、合格者はすべて男子であった。約三割の児童が試験で落第したことになる。大洲小学校では下等一級に合格した紫村竹松について、同年九月に「大試験御願」を提出している。九月には水害に見舞われて増水し、橋が流されたりして児童の通学が不可能となったため、大洲小学校は九月二O日に「休業御届」を出して臨時休校とし、十月五日まで授業を休止している。こうした悪条件があったが、十月十四日と十五日の両日に実施された大試験に紫村竹松は見事に合格した。試験の結果については、「大試験卒業免状相渡候義御届」として、教員の石津平次右衛門、学校世話役石津寛治郎、村長石津兵右衛門、区長関戸覚蔵が連署し、学区取