ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代三円一銭徴収していた。当時は四四人の児童がいたので、一人あたりの現授業料は約七銭となる。授業料については、明治九年七月に茨城県から近「授業料之議」が布達され、上は一二銭五厘から下は六銭までとし、貧V富により差を設けることが示されていた。また学校費用は、年額で書籍器械営繕費が一O円、薪炭筆墨紙代が六円、学校世話役給料が五円、役夫給料が一O円の、合計三一円であった。これらの数字をみると、学校費用を授業料で賄い、学資集積金と寄付金で教員の給料を賄っていくことは、不可能ではないといえよう。しかし、学校の新築などの重要な事業があり、決して充分とはいかなかったようである。明治十一年三月に校舎を新築した時には、七一名の村民から合計八O円六O銭の寄付金を徴収している。住民は子弟が学ぶ小学校の教育環境を向上させるために、かなりの犠牲を払って寄付に応じたことであろう。新校舎完成の二か月前にあたる明治十一年一月十一日に、大洲小学校教員の石津平次右衛門は、茨城県権令野村維章宛てに「願書」を提出している。そこには、次のように述べられている。私儀先般昇級被仰付難有奉存候得共、村内戸数石高共此ニ少ニシテ賦課モ充実不致候問、給料之儀者従前之通金三円宛-一節減被仰付候様仕度、此段奉願候也。大生小学校においては、校舎が焼失するという事故が発生し、その再建に苦労した。釜谷区有文書のなかに、大生小学校の学校世話役であった風間晋平と大川仁蔵が連名で、明治十二年三月に行方郡長宛てに提出した「以書附ヲ奉願候」という文書がある。)れによると、大生小学校は明治十年二月に、大生村、大賀村、釜谷村の三か村連合で設立されたが、明治十二年二月に火災で焼失してしまった。三か村では学校新築を含めた再建計画を協議したが、大賀村は連合から分離し、独立して小学校を運営したいと主張し、諸入費をいっさい納入しなかった。」れによ590り再建計画が暗礁に乗り上げ、困った学校世話役が郡長に二OO円の金銭拝借を申し出たのであった。しかし郡長からは「学区取締江商議之上更ニ可願出事」という返答があるのみであった。}の後の動きを史料によって追うことはできないが、}の地域にも小学校創設期における深刻な問題が生じていたのであった。明治九年に真壁郡で発生した、地租改正反対一撲(牛子騒動)における住民の要求のなかに、学資金の全廃と公費による学校運営の要求が入っていたが、当地方においても負担の大きさは、住民の生活に大きな影響を及ぼしていたのである。以上、学制の時期についてみてきたが、潮来地方の具体的な動きについては、その多くを大洲小学校に関する大洲区有文書を使って述べてきた。しかし、潮来町域にあった他の小学校教育の実態も、大洲小学校と大きく異なるものではなかったと考えられる。学制の公布以来、政府や県当局は就学の督励を積極的教育令から改正教育令へに行ない、国民皆学の実現に向けて努力した。しかし、学制の規定は、当時の国民の経済力などから考えると、相当に無理のあるものであった。学校の設立と運営に係わる財源をほとんどすべて地元民の負担で賄おうとしていた点などは、その最たるものであった。また、小学校の設立後、下等小学四年と上等小学四年の合計八年間を、全国画一的に学齢と定めてみても、実態としては上等小学まで進む児童はごく少なかったし、上等小学すべての課程を含めた授業を行なえる小学校も少なかった。すべての国民に小学校への就学を進めるために、小学校の設立を強く奨励し、就学を督励したが、そのいっぽうでは、小規模の小学校や施設の整わない小学校も出てくるというのが、