ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代幹を形作る諸制度が次々に制定されて行ったのである。現小学校令は伊藤博文内閣のもとで、森有礼文部大臣が中心になって作近られたものである。かつては明六社の代表として啓蒙主義思想家の中心V人物のひとりであった森は、ロンドン公使などを歴任して外国の事情を肌で感じ取った後は、国家意識を強くもった教育制度の樹立を画策し、明治維新以来政府の第一績で活動してきた伊藤は、森と意見の一致をみたのであった。小学校令によると、第一条で小学校を尋常小学校と高等小学校の二種類とすること、第三条および第四条で、六歳から一四歳までを学齢とし、父母後見人は学齢児童を尋常小学校へ就学させる義務がある、と規定した。ここに義務教育の端緒をみることができる。また、小学校の経費については、授業料及び寄付金で賄い、不足する場合は区町村会の議決により区町村費から不足分を支出することとされた。教科書については、小学校令により検定制度が採用されるようになった。同年五月に出された文部省令によると、尋常小学校の教科は、修身、読書、作文、習字、算術、体操とされ、土地の状況によっては図面、唱歌の一科ないし二科を追加してよいこと、とされた。また高等小学校は郡立で設置することとされ、行方郡へは高等小学校が三校設置された。行方郡第一高等小学校が麻生村へ、第二高等小学校が潮来村へ、第三高等小学校が玉造村へ設置され、行方郡第二高等小学校は長勝寺にあった潮来尋常小学校の一部を割いて開設された。しかし長勝寺では児童の収容に限界があり、翌明治二十年には新しい敷地(現在の潮来小学校の敷地の一部)へ校舎を新築して移転している。市制町村制が施行された後の明治二十三年に小学校令が改正されると、条文が大きく整備されるに至った。条文は九六条に増加し、尋常小学校の目的については、第一条において、「小学校は児童身体の発達に留意592して道徳教育及国民教育の基礎並生活に必須なる普通の知識技能を授くるを以て本旨とす」と規定し、道徳教育を最優先する姿勢を明確にした。小学校令の改正による文部省の各種法規の整備は、市制町村制の施行等があり明治二十四年の十一月から実施された。このため、茨城県段階では明治二十五年になって、改正小学校令に基づく法令の整備が行なわれた。改正小学校令の公布と相前後して、明治二十三年十月三十日に教育勅語が発布された。}れは、儒学者の元田永字や法曹官僚の井上毅らが中心となって作成されたもので、天皇から首相、文相へ下付するという形で発布された。教育勅語は天皇中心の国体の特質を説き、すべての国民に天皇及び国家への忠誠を誓わせるものであった。教育勅語の謄本は文部大臣の訓示を添えて、この年の暮れから、全国の小学校へ頒布された。また御真影(天皇・皇后の肖像)が同じ頃から全国の小学校へ頒布された。御真影は、小学校から頒布を願い出た上で天皇から下賜される、という形をとった。茨城県は明治二十五年四月五日に、御影及び教育勅語に関する件達という訓令により、「天皇陛下皇后陛下ノ御影並ニ教育-一関シ下シタマヒタル勅語ノ謄本ハ校内一定ノ場所ヲ撰ミ最モ尊重ニ奉置セシムへシ」と指示した。)うして教育勅語と御真影は、明治二十年代以後の小学校において、最も神聖なものとして取扱われるようになった。また、明治二十四年に出された小学校祝日大祭B儀式規程を受けて、茨城県では明治二十五年に「小学校祝日大祭日儀式の次第」を県令により制定した。ここには、元日一の四方拝、二月十一日の紀元節、十一月三日の天長節を三大節として、御真影を掲げて教育勅語捧読を中心として厳かな儀式を営むことが明記されている。なお昭和二年からは、明治天皇の