ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 605/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている605ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている605ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
第1章新しい時代の幕開け第V-24明治15年1月の小学校行方郡内の学区名称村名人口第39番学区大賀小学校大賀村273第40番学区大生小学校大生村釜谷村482第41番学区水原小学校水原村774第42番学区延方小学校延方村3636第42番学区徳島小学校延方村第43番学区辻小学校辻村964第44番学区築地小学校築地村赤須村610第45番学区潮来小学校潮来村3975第46番学区大洲小学校大洲村429出典明治15年茨減県令乙第百四十九号改正がある。}れは地方行政制学校へ通学することになるが、実際には必ずしも指定された小学校へ喜593次に明治十七年に行なわれたている。行政上の手続きにしたがうと、子供たちは新しく指定された小るように指定されていた。明治二十二年までの聞に、法令上では小学校数が九校から四校に減少しA〉dフ-こま-・ゆιAH、Nそれでも一校設置すくなり、事実上通学が不可能になることが考えられる。明治十五年からる。大賀村では人口二七三名でのであった。明治十九年の学校位置指定が貫徹されると、通学距離が遠すように、九校が指定されてい度の変更が加わったため、教育はきわめて不安定な状況におかれていた潮来町域では、第Vl剖表に示しい変更に目を驚かされるほどである。学校教育制度の変更に、行政制められている。」れによると、明治十八年から明治二十二年までの小学校の変遷をみると、めまぐる四十九号で小学区域と校数が定はあれ学区に大きな変更が生じたのであヮた。明治十五年十一月に県令乙第百更を加えられた。潮来町域に新しく誕生した各町村において、程度の差具体的な動きについてみると、村単位に小学校を設置することとなり、第V加表に示すようにまた変年となっている。その後、明治二十二年になって市制町村制が施行されると、新しい町れていた。明治十六年の学校数が、茨城県の歴史上で最も小学校の多い校数は大幅に減少したのである。置基準が緩やかになった後に簡便な方法によって設置されたものも含ま第V1お表のように連合町村ごとに一校ずつ尋常小学校が作られ、小学九二八校まで増加した。}のなかには、明治十二年の教育令によって設された。小学校は尋常小学校と高等小学校の二種類となったのであるが、明治八年に六五七校あったものが、じよじよに増加し、明治十六年にはこれらの小学校は、明治十九年に小学校令が公布されると、また変更の後も何回かの大きな変更があった。茨城県内の小学校の総数をみると、の大生小学校と、中等矢幡小学校の大賀分校があったことがわかる。されている。すでに明治十三年までの動きについては述べてきたが、そ村などと行方郡第一O番学区を形成しており、現在の潮来町域には初等地方行政制度の変更により、複雑な展開を余儀なくに各種の小学校を設けていたのである。大賀村、釜谷村、大生村は石神小学校の統廃合つJ-J-AHSNA、その後の変遷をみると、教育制度の変更とものである。連合町村制による連合町村ごとに学区が決められ、その中小学校は、学制の公布によって各地に設立されてい改正教育令により小学校を初等・中等・高等の三種に分けていた時期の続けられるのである。れにより潮来町域の小学校は第Vお表のように再編成された。」れはとする戦前日本の教育を象徴するものとなり、太平洋戦争敗北の時まで数及び等位が示され、明治十八年一月より施行されるものとされた。v}大祭日におけるこのような厳かな儀式は、まさに教育勅語を精神的支柱明治十七年十一月二十九日付で茨城県令甲第六十六号により、学区と校誕生日である十一月三日を明治節として三大節に加え、四大節となった。度において連合町村制の改正が行なわれた後に行なわれたものであり、