ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
次のように記されている(「大洲区」有文)書。置を茨城県へ願い出た。それを示す「分教所設置御願」の下書きには、とになった。}の時に大洲村では一三名の惣代理を立てて、分教場の設大洲小学校は明治十九年には廃止され、潮来尋常小学校へ通学するこで、読み・書き・そろばんを学んでいたことも考えられる。分校として存続させていったり、小学校の名は消えても私塾のような形廃合によって通学に極端な不便を生じた地域では、従来あった小学校をんで通学するようなことはなかったと考えられるのである。小学校の統V近現代第V-25明治18年と明治19年の小学校行の方学郡区内連メE弘コ、村明治18年1月明治19年1月第10番学区石神村矢幡村中等矢幡小学校根小屋村大賀村矢幡小学校大賀分校大生村釜谷村矢幡小学校清水分校堀之内村茂木村矢幡小学根小屋分校矢幡尋常小学校清水村初等大生小学校初等掘之内小学校初等石神小学校第1番学区水原村辻村中等辻小学校築地村辻小学校築地分校築地尋常小学校初等水原小学校第12番学区延方村高等延方小学校(第14番学区)初等徳島小学校延方尋常小学校第13番学区潮来村大洲村高等潮来小学校初等大洲小学校潮来尋常小学校延方村は明治19年には第14番学区となっている連合村名は両年とも同じ出典明治17年茨峨県令甲第六十六号,明治19年茨城県令甲第三十四号.な通学上の困難さは、徳島小学校の場合にも該当するが、徳島小学校のでには分教場が許可されたということがいえる。大洲小学校と同じようまる「大洲分教場生徒授業料収納元簿」が残されているので、この年ま許可された年月については確認ができないが、明治二十二年七月から始大洲村の人々の大洲分教場設置の願は、茨城県の許可する所となった。モ只管奉懇願候也益ニモ相成リ候儀ト奉存候問、至急何分之御沙汰相成リ度、幾重ニ候ハハ人民幸福一層眼目ヲ開キ蓋シ之レ開明ヲ進ムル文運隆盛ノ便特典ヲ垂レサセラレ大洲村ヲシテ分教所設置願之儀御聞届被成下置此段忌樺ヲモ樺カラス奉請願候、伺卒前条地方ノ状景御憐察被成下村人民一同百事憂慮脳裏ニ貫徹罷在候ニ付不肖ノ私共惣代理ト相立スル学業恰モ愛ニ尽キ現在文学ノ一路ヲ塞キ候次第ニ可相成哉ト本立至リ到底此憧-一打過キ候ハパ大洲村-一対第V-26表明治22年7月の小学校行の方学郡区内学校名町村名位置第15番学区大生原尋常小学校大生原村大字大生第16番学区延方尋常小学校延方村延方村第17番学区津知尋常小学校津知村大字辻第18番学区潮来尋常小学校潮来町大字潮来出典学ノ見込アルモ半途ニシテ退学スル場合明治22年茨城県令申第四十三号ヲヤ、其嘆キ云ハン方ナシ、嘗テ四ヶ年就難罷在候、況ンヤ児童婦女子タル者ニ於テナラス風雨降雪之際ハ勿論日々往復殆ト困校へ着スル午前十一時後ニ至ぺ夫レノミ廿有余川路四方ニ構へ該渡舟ヲ漕ヒテ潮来ヨリ四十町有余ノ里程ニシテ加フルニ川幅レ如何セン大洲村ト潮来村トハ距離地辺一一人民之一一応スルノ精神落意ヲ陳呈仕候、是常小学校へ通学可致旨被仰聞候得共、乍恐小学校ヲ廃セラレ大洲生徒之儀同郡潮来尋右奉願上候、今般学制御改正-一依リ旧大洲594