ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
動きは史料的には確認することができない。潮来町域における就学率を示す史料がないため、茨城県全域における就学率をみると、大変動期といえるこの時期における児童の就学率は、大幅な落込みを示している。学制の公布以来、明治十八年までは着実に就学率が上昇し、明治十八年には四五パーセントを越えるところまできた。しかし翌年から低下しはじめ、明治二十年には一ニ七・四パーセントに激減しているのである(『茨城県史料近代統計編』)。}の数字は、明治十年の三八・四パーセントを下回る数字であった。小学校令が出された時期に就学率が低下することは全国的な現象であるが、茨城県もその例外ではなかった。このように、明治二十年代半ばまでは、教育制度や教育内容の変更が頻繁に繰り返され、小学校教育が軌道に乗ったとはいえない状況が続いた。しかし教育勅語の発布や改正小学校令の公布により、戦前日本の教育制度の根幹が形成されたのはこの時期であった。新しい時代の幕開け第l章595