ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
イタピカズラ、テイカカズラなどのつる植物がからみ、草本層にはマンリョウ、ヤブコウジ、カテンソウなどがみヤツデ、、ンュロ、ヤプラン、られ、オニヤブソテツ、ベニシダ、イヌシダ、イヌワラビ、シケシダ、ホソパシケシダなどシダ類も多い。少しはなれたところに大賀浅間神社の森があり、県の緑地環境保全地域に指定されている。神社の周辺は全体が斜面の森であり頂上付近はシイが多くこんもりとしている。高木にはシイのほかにタプノキ、モチノキが見られ、その下にシイの若木、アオキツバキなどの常ヒサカキ、緑樹が多い。それに混ってクヌギコナラなどの落葉樹が生育する。そして秋の紅葉の美しいハゼが多く目につき、紅葉の季節、緑の木々と真紅のハゼが織りなす模様はまことに美しい。林床にはヤブコウジ、リュウノヒゲ、マンリョウ、などが美しい実をつける。地域の人びとによって下草刈りなど管理はよくされているが、最近他の山林と同様、ズマネザサ、メダケ等、シノ類の侵入が目立ち荒れてきている。西側の斜面下にはスギ、ヒノキ等が植林され、成長しつつある。水原地区に見られる斜面林について記すと、かんぽ保養センター下から延方地区までの約一キロメートルにわたり見事な斜面林が発達している。北浦を見下ろすこの森はシイ、タプノキ、モチノキ等から成り特にシイが多い。また竹の類も目立ち特に愛染院裏山はりっぱなモウソウチク林である。北浦側から見ると一定の高さに丸みをおびた木々の樹冠の物連なる豊かな森が続き、その森に抱かれるように民家の屋根屋根が日に映え、自然と調和して生きる里の静かなたたずまいに安らぎを覚える。生そこに住む人たちは自分の家の裏山として斜面の森に親しみまた大切第2章にしてきた。森の木々は肥沃な土壌と水はけのよい急斜面、そして落葉などを肥料として大きく成長している。}のため斜面はしっかりと守られ、裏山の崩れる心配もなく安心して生活しているのである。また所々木の少なくなった所には、ヒノキなどを植林している。樹林の下スギ、は急勾配でそこにはタブ、シイの幼生やトベラヤツデ、ヒサカキ、ツノfキモチノキなどの亜高木が生えている。またマンリョウ、ヤブコウジシダ類も多く、特に愛染院裏のガケにはコモチシダが多い。このように潮来町では台地や低地の森林は開発、農地利用等で消滅した箇所が多いが、斜面の場合その様な利用価値がないこともあって、自然の植生のまま残されていることが多い。今後も切通しゃ土砂の採取等でこの様な斜面の森が失われないようにしたいものである。「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはしをら潮来の花あやめしゃ」「潮来出島のまこもの中にあやめ咲くとはつゆしらず」は潮来節の元唄といわれており、潮来アのあやめは全国に有名となった。以下潮来花菖蒲協会長須田益太郎氏による資料等を基に記すことにする。木版本「忠孝潮来婦志」の中には葛飾北斎の筆に成るアヤメの花もあり、また水戸光聞の詩とされる「潮来出島の真菰の中も水府のものとはつゆ知らず」と出ている。一方歌舞伎の中でも安政元年(一八五四)江戸中村座において中村中造が長唄藤娘の中で本調子の端唄「潮来出島」を唄い好評を博したが、その中にもあやめが登場している。また関戸家文書の中にも「潮来節」に関する多くの詩が残されており、やはりあやめの花が出てくる。江戸時代「潮来節」は全国的に大流行し、各地の地名の下などに「あやめ咲くとはしほらしや」と付けられ唄われ、多くの替唄が生まれた。そしてまた遊廓のあった潮来はあやめの花がそこの遊女にもたとえられ、結びつけられてなお一層有名になったようである。当時潮来は舟の往来が盛んであったから、あやめの株も舟によっ49