ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節地主制の発展日清・日露戦争を契機とする資本主義の発展にともな地主制の発展って、農村に押寄せた商品経済の波は、農民の生産生活のありかたを根底から変えていった。このような状況のなかで展開されたのが前項で述ぺた「地方改良運動」であるが、同時期、茨城県岡田郡岡田村国生(現・石下町国生)生れの小説家、長塚節がその代表作品となった『土』を朝日新聞に連載し始める。明治四十三年(一九一O)六月のことであった。節の生家長塚家は、「山久」の屋号をもって知られた質屋及び肥料商を兼ねる大地主で、祖父久右衛門の代に土地を集中、父源次郎は明治二十一年から県会議員、そして県会議長になるなど地方政治家として活躍した。}のような家に生まれた長塚節が描き出した世界は、みずからの「地主の境遇」でもなければ、「中堅農民」でもなく、農村の最底辺の階層、貧農の生活であった。勘次の田畑は晩秋の収穫がみじめなものであった。それは気候が悪明治末・大正期の潮来地方いのでもなく、文土地が悪いのでもない。耕転の時期を逸しているのと、肥料の欠乏とで幾らあせっても到底満足な結果が得られないのである。貧乏な百姓はいつでも土にくっついて食料を獲ることにばかり腐心しているのにも拘らず、其作物が俵になれば既に大部分は彼等の所有ではない。その所有であり得るのは作物が根を以て田や畑の上に立って居る聞のみである。小作料を払ってしまへば既に手をつけられた短い冬期を凌ぐ丈のことがともすれば漸くのことで第2章ある。このような小作貧農をうみだした近代日本の「地主制」は、明治初年の地租改正を画期として全国的な規模で創出された。地租改正は幕藩体制下における封建的土地所有関係を廃棄、また複雑な土地所有慣行を整理して一地一人主義の原則にもとづく土地所有制度を実現したが、l日貢租水準維持のため租税重課と地租金納化を農民に押しつけたため、農民の急激な階層分化をおつながした。さらに、明治十年代の「松方財政」下におけるデフレ政策によって、自作農民の土地喪失、地主への土地集中が加速され、地主的土地所有川地主制が急激な進展をみせる。この地主制進展の指標ともいうべき小作地率の推移を、まず茨城県全体についてみると、明治初年には全国平均にくらべて極めて低水準にあったものが、明治三十年代以降急速に全国水準に近づく。とくに畑の小作地率は全国水準をこえて、明治四十四年には四五・一パーセント(全国平均の畑小作地率三九・八パーセント)の数値を示した。さらに大正1昭和前期にかけては、全国水準の小作地率が四五1四七パーセントに推移したのに比較して、茨城県では四八パーセントをこえ、昭和期に入ると五Oパーセントを上まわることとなる。近代茨城における地主制展開の特徴をあげれば、まず小作地率、小作農家数、小作農家比率ともに、大正・昭和前期を通じて一貫して増加し続け、戦後の「農地改革」に至ったことがあげられる。茨城県における地主制は明治初年以来なんら改編をせまられることなく戦後のGHQ主導による農地改革をむかえたのである。一般的に日本の地主制は、大正九年(一九二O)の戦後恐慌以降の「本格的争議段階」の過程と、大正八年の五O町歩以上地主数ピlク、昭和五年の農業恐慌、昭和十三年以降の戦時統制という地主制凋落の過程との二重の過程裡に崩壊したとされる(山田盛太郎「農地改革の歴史的意義」)。しかし、茨城県の場合、地主制613