ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近V系関東地方篇』)。624これに対して明治十三年(一八八O)に、同じ坂村の折本良平がシラウオ漁のために考案し、普及に努めたのが帆曳網漁法であった。}れは漁船の船首と船尾に長い竿を張り出し、袋網を結びつけ、横に船を流して網を曳くというもので、漁師一人で操ることができたが、風のあるときにのみ用いた。大徳網が四01五O人を要したのにたいして、帆曳網漁は一人で自由に移動し操業できるという利点があった。当初は「白魚網」と称されたが、二十三年に同村の柳沢徳太郎がワカサギ漁のための改良を加えたことで、帆曳網漁法が霞ヶ浦における漁法の主流になって漁fこ出島村z沿湖沼漁場之事茨城県史料近代産業編E』)。網また、水産加工の分野でも、行方郡では麻生町を中心に佃煮の製造が曳行われ、東京方面へ販売された(「麻生ノ佃煮」『茨城県史料近代産業編帆E』)。霞ヶ浦周辺で佃煮を製造したのは、粗毛村(麻生町)の奥村吉郎兵第V-36図衛らが最初であった(植田前掲書)。彼は、明治二年(一八六九)に東京に出て、佃島(東京都中央区)で小魚の保存食を研究し、ハゼの佃煮に成功した。彼は、明治五年に帰郷して霞ヶ浦の漁獲物の佃煮の製品化に成功し、明治十六年の水産博監会や十八年の内国勧業博覧会に出品し、褒状を授与されている(『玉造町史』)。潮来地方でも、明治十九年四月に千葉県千葉町で開催された一府六県連合水産共進会に大生原村釜谷の梅田常吉が佃煮を出品して六等賞を受賞し、同二十一年四月に宮城県石巻で開催された宮城県主催水産共進会において潮来町の園部賢助が桜エピを出品し、四等を受賞するなど、水産加工の分野で成功する者も出てきた(「大日本水産共進会及ピ千葉県下水産連合共進会へ出品受賞」「宮城県主催水産共進会へ出品受賞」『茨城県史料近代産業編H』)。