ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
次に、当時行われた漁法について紹介しよう。明治十七さまざまな漁法と魚種年(一八八四)五月に延方村などへ出張した茨城県吏員河井貞一は、潮来村の津頭であった石田補など各地の篤志家を訪ね、霞ヶ浦漁業の旧慣と現況を調べている(「霞浦水産調査一班」「沿湖沼漁場/事」『茨城県史料近代産業編H』)。以下では、河井の調査結果や当時の記録に沿って、当時の霞ヶ浦・北浦漁業の状況を見てみよう。河井の調査によれば、明治十七年当時の霞ヶ浦・北浦の魚類はエビ、カサギ、ハゼその他多種多彩な魚介類がウナギ、コJ叶、フナ、ヤマメ、生息し、特に鰐川付近ではポラもみられたという。このうち、エビは六月下旬から八月末迄が抱卵期で、七、八月が盛漁期とされるが、年により秋漁が多漁である場合もある。主な漁法は「蝦樽」や「蝦サデ」であった。蝦樽は、幕末頃に創始された漁法で、小樽の中に餌として糠や酢粕を入れて仕掛けるもので、漁夫一人で六O O個くらいを仕掛けたとも言われる。なお、延方村でも蝦樽や蝦サデを用いたという。延方村では、蝦樽を八十八夜頃から九月末まで用いたが、の問、夏土用の時期は休漁した。シラウオは、新暦三月から四月下旬位に岸辺の藻などに放卵するが、明治末・大正期の潮来地方漁期は新暦八月から翌年五月までとし、六、七月は休漁とした。また、盛漁は十、十て十二月で、七、八、九月は夜漁であった。主な漁具は明治七年頃から帆曳網(当時は「白魚網」と称した)を用いた。ワカサギは、旧暦十二月に放卵し、翌年六月頃に最も美昧となるが、盛漁は秋彼岸から翌年二月までで、寒の半ばには魚群が産卵所となる洲に集まるので、大いに漁獲があったという。}れを「洲上げ」と称した。第2章漁法は「百反」と呼ばれる麻布製の袋網や「大徳網」が用いられた。百反は一網につき八人くらいで曳き舟三般という大規模なものであった。また、大徳網も新暦八月から二月にかけて用いた。ウナギは、晩秋のころ利根川河口から遡上して、春頃に淡水と海水の混じり合う汽水域で産卵し、春の彼岸の頃からさらに上流に登るが、「下り鰻」と称される秋の彼岸頃のものが美味とされる。鰻漁の餌はタニシ(田螺)等で、延方村では旧暦十月から翌年二月までは鰻鎌(撞き鎌とも言う)を用い、旧暦三月からは樽、縄針、ツクシを用い、六、七、ワ八月は笹浸を用いたという。ウツポ、長}の他、霞ヶ浦では長縄や筆、袋なども用いたという。コJ川目、四季を通じて漁が行われたが、旧暦四月から九月までフナは、が盛漁であった。:lイフナはタニシやシジミを餌とし、網代、賛立、於字、茎などで採った。ハゼは、陰暦三月初旬から塩水域から遡上し、七、八月頃からは下ったのでこれを「土用下り」と呼んだ。}のため八月頃が盛漁期であった。漁法は、春秋には網代、賃立を用い、夏には下げ釣、竿釣などを用そいた。春、夏には打網も用いられた。また、震ヶ浦・北浦沿岸では、岸辺のさまざまな藻類は肥料として用いられた。とくに、河井の調査によれば、延方村でも「イセモク、青柳モク、ツツゴモク、三月モク」などの藻類が採取されていた。中でも「ツツゴモク」は、長さが五寸くらいで冬に多く見られたが、肥料としては最良とされた。ところで、潮来地方は霞ヶ浦、北浦、浪逆浦の中でも、有数の好漁場とされてきた。河井は潮来村持ちの「蛤川賛建」や延方村持ちの「幡替、下回、堂津」の網代、「前川」や鰐川に面した「三番代」「藤十側」「寺前」の賢建てが良いと報告している。}の他にも、行方郡出沼洲や信太郡木原沖や新治郡志戸崎がワカサギ、シラウオなどの絶好の産卵場所と625