ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代大生原村大生から旧大和村字崎にかけての沿岸海面も含まれた。この替市現漁区は、具体的には「行方郡大生原村大字大生第十七号標識、是ヨリ四近十五度O分ノ方位線上百五十間ノ点、同郡大和村大字字崎第十八号標識V及是ヨリ百二十四度O分ノ方位線上九百問ノ点ヲ連結シタル線ト第十七号標識ヨリ第十八号標識-一至ル沿岸線トニ依リテ囲7レタル区域」とされ、大正九年三月改正の漁業取締規則でも「水産動植物禁漁区」とされfここのような禁漁区が設定されたのは、大生の地先水面がシラウオ及びエピの産卵、生育場として両湖中でも適当な場所とされ、そのような水域を選んで禁漁区を設定することが保護繁殖に最も有効であると認められたためであった。茨城県漁業取締規則は、その後もたびたび改正されたが、震ヶ浦及び北浦における漁業資源の保護措置がいっそう強化された。例えば、昭和十四年(一九三九)の規定では、体長八寸六分(約二六センチメートル)以下のウナギの幼魚は捕獲を禁じられた。)の基準は、大正十二年の七寸を上回る厳しいものであった(昭和六年四月二十四日茨城県令第二四号「漁業取締規則」)。このように県では、近世以来の慣行に依拠しつつ、内水面漁業の発展しだいに資源保護上の規制を強化していった。昭和十三年六月、県の霞ヶ浦・北浦の水産振興対策の一環として、動力付き漁船を使用して底曳網漁業を為す者を取り締まる方針を決定した。に対応して、さらに、帆曳網漁業の鑑札書き換えに当たり、漁業時期の制限と条件制限を明示することとした。しかし、厳しい規制にも関わらず、両湖では底曳網漁が横行したため、取締りに苦慮した茨城県では、昭和十五年一月から使用期間を限定して認可することになった。また、昭和十三年七月の水害も、両湖の水位を異常に上昇させ、その結果、霞ヶ浦・北浦の漁業にも悪影響を及ぼした。同月十六日には、行628方・鹿島・北浦漁業組合会は擢災漁民救済について県に陳情し、」れをうけて、十七日には県経済部が震ヶ浦・北浦沿岸漁民の水害復旧資金を漁業組合を通じて融通することとなった。また、翌月には霞ヶ浦・北浦の沿岸二二か所に製造加工場を新設し、その費用約一五万円の半額の国庫補助を農林省に申請した。潮来周辺でも麻生に設置されることになり、翌年三月には麻生や潮来、大生原の水産加工業者に建設費の寄付を募っ昭た和十三年の水害は、水産施設等に深刻な被害をもたらした反面、意外な豊漁にもなった。県水産試験場土浦出張所による霞ヶ浦沿岸水産業者の水害調査によれば、「増水のお陰で、霞ヶ浦の水位が未だに高いためエピやワカサギなどが大豊漁」と伝えられ、沿岸漁民は更生の思いであったという(「いはらき」新聞)。ところで、茨城県では、霞ヶ浦・北浦を「淡水宝庫」と位置づけ、内水面漁業の育成を、強力に推し進めることとし、昭和十三年(一九三八)八月十二日、「霞ヶ浦北浦水産振興場」を設立した。震ヶ浦・北浦の内水面漁業の振興を図ることは、長引く日中戦争や予想される日米開戦に供え、沿岸漁業を補完する淡水漁業を育成するねらいがあったものと考えられる。霞ヶ浦北浦水産振興場は土浦に置かれ、麻生と鹿島郡大同村(大洋村)に出張所が置かれた(「霞ヶ浦北浦水産振興場職制」)。同場では、霞ヶ浦及び北浦の水産増殖事業、水産物加工改良事業、漁業監督などを担当した。なお、昭和十五年一月には行方水産会が同場に対して漁業監督船建造費を寄付することを決定している。また、昭和十三年八月二十四日、茨城県は霞ヶ浦・北浦産の佃煮を重要物産に指定し、その製品検査を十一月初旬から開始した。)れは昭和