ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
十二年五月に定められた「茨城県水産製品検査規則」に基づくもので、県内産の魚類乾製品(鰯煮干し、田作など)や佃煮製品、鰯搾粕などの魚肥料・魚油について、県水産品検査所において品質等級を検査し、証愚を交付するというものであった(「茨城県水産製品検査規則」)。}の制度は、本来は官公庁や博覧会に提出する水産製品に適用されるものであったが、実質的には県が県産品の品質保証を与えるものであった。潮来地方のうち、旧潮来町、津知村は霞ヶ浦支所(土浦町)の麻生出張所が担当し、延方村、大生原村は大岡村に置かれた北浦支所が担当した。例えばワカサギ佃煮については、「松、竹、梅」の三等級が設けられる。「松」の品位は「原料新鮮、煮熟適度、色沢、形態及香味優良ノモノ」とされた。このような品質向上に結びつく措置をとると同時に、県では水産品の販路拡張につとめ、同月さっそく「霞ヶ浦北浦水産品展示会」を、県下初の試みとして土浦町公会堂で開催している。昭和十五年六月、霞ヶ浦北浦水産振興場はエピの産卵期に備え、霞ヶ浦・北浦沿岸一五か所に蝦の産卵場を築造し、七月には千葉県から購入した幼鰻二五O買を霞ヶ浦へ放流した。世界的な恐慌に加え、長引く日中戦争によって、わiO~明治末・大正期の潮来地方戦局の悪化と霞ヶ浦漁業さらに昭和十六年国経済は悪化の一途をたどった。(一九四一)十二月の日米開戦は、震ヶ浦・北浦の水産業にも深刻な影響を与えた。昭和十五年三月二目、両湖沿岸の水産関係者の代表が会合し、「霞ヶ浦北浦両湖沿岸漁業組合連合協議会」が開催された。」の席で、加盟全組合によって「霞ヶ浦北浦共同組合連合会」を新たに結成することを申第2章し合わせた。また、翌月には震ヶ浦沿岸田郡(行方、鹿島、稲敷、新治)の水産加工業者が水産加工組合を結成した。また、昭和十六年三月には行方郡水産会が、漁網用麻糸の不足を克服し、漁網の自給自足を図るために、郡農会の協力で日本原麻会社から綿花の種子二石を取り寄せて栽培した。四月九日には「行方郡水産報国会」が結成された。同会は軍用飛行機の献納について協議し、五月には軍用機「茨城水産号」の製作費三O五O円を寄付している。このような動きに対応して、昭和十四年四月、行方郡農会は農家の副|日業として鯉の養殖を奨励した。ついで、昭和十六年一月には、行方郡農会は淡水産貝殻を燃焼して代用石炭を生産することを決定し、年産一O万俵を目標とした。}れは、郡内の貝殻釦工場から釦屑として捨てられる淡介殻を資源化するものであった。さらに、漁船燃料油の逼迫によって不足しつつある海産魚介類を補うため、大生原、延方など行方郡内の一一か村は、同年十一月、郡内に三六か所ある用水池、溜池を活用し、淡水魚を飼育することとし、その養殖に二村の農事実行組合員が養魚報国推進隊員としてあたることとなった。)れをうけて、行方郡水産会も、翌年三月に漁業報国推進隊を結成し、十七年度事業として淡水魚の増殖と計画生産の指導を行うこととした。また、同年七月には、溜池を利用した鯉の稚魚養殖事業が、行方郡水産会と行方郡農会の共同主催による淡水産食糧増産事業計画として発表された。また、霞ヶ浦北浦水産振興場でも昭和十九年一月から二月にかけて、震ヶ浦、北浦において、ワカサギの卵三O億粒の人工僻化を実施した。しかし、戦局の悪化により労働力や漁具、燃料油を失う中で、いっそうの生産拡大を遂行するため、昭和十九年六月、行方郡内の各漁業協同組合は解散し、漁業会として再発足することになった。六月中旬、はやくも延方、大生、潮来、津知の各組合が漁業会設立のための委員会を開催し、七月八日には潮来及び津知の漁業会が設立された。629