ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
明治末・大正期の潮来地方第2章道との連絡を図るべく、周年十一月に両総鉄道(八街・銚子間)を出願しげんばた。これは醤油醸造業の田中玄蕃家ゃ、そもそも総武鉄道の発起人に加わっていた醤油醸造業の岩崎重次郎ら銚子財界の有力者を中心にして、それに政商大蔵喜八郎が参加したものであった。その後も銚子及び周辺地域の有志の者たちによる期成同}の申請は翌年六月に却下されたが、盟会が結成され、結局、総武鉄道が明治三十年に佐倉・銚子聞を延伸開業させるにいたった。佐原停車場(千葉県立大利根博物館提供)総武鉄道の銚子開業は、明治期の利根川水運に重大な影利根川水運と鉄道建設響を与えた。佐倉・銚子聞が開業した明治三十年(一八九七)下期に、銚子汽船会社は早くも大幅な赤字を計上、r'えdT』、ハこつこ。み主こ、、1JZblLff斗昌}れ以降も銚子港の貨物移出入量が大幅に減少し、明治末期から大正初期には、銚子港で取り扱われる貨物は、木炭、木材、甘藷などに限定され、圏内商品流通の中で重要な役割を果たすことがなくなったと一言われる。一方、明治二十六年(一八九三)、成田山新勝寺貫主と信徒を発起人とする下総鉄道株式会社は、大蔵喜八郎の協力を得て、佐倉・成田・佐原第V-38図聞の鉄道建設を申請した。新勝寺は、明治維新以降の交通事情の推移に対応し、全国の信徒の参拝の便を確保することに積極的であり)の構想もその一環であった。当時、すでに東京本所・佐倉間で建設工事を行っていた総武鉄道も、佐倉・成田聞の鉄道建設を申請したため、両者の競願となったが、免許取得後一年以内に全線を起工し、二年以内に完工することを条件に、明治二十七年に下総鉄道に免許が下付された(『千葉県史明治編』)。翌年八月、下総鉄道は成田鉄道と改称し、三十年には佐倉・滑川(千葉県下総町)聞を開業させ、さらに三十一年には滑川・佐あびこ一方、成田・我孫子聞の免許も取得し、明治三十四631原聞を開業させた。