ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
占め、成田鉄道が貨物輸送に関しては、佐原駅で利根川水運と結びついていることを一不している。ところで、明治三十八年の佐原駅の貨物発送量は一万三000トン余であったが、その内訳は、米が五五00トン余、木材一九00トン余、醤油一四00トン余、酒七四0トン余、藁製品四六0トン余であった(『佐原市史』)。じゅうろくしまこのうち米はいわゆる十六島地方や行方郡、鹿島郡、稲敷郡から利根川舟運を利用して佐原駅に集荷されたものである。佐原駅では、大正十四年(一九二五)に二万四000トン余の米を発送しているが、かます時全国第三位であった。また藁製品とは俵、臥などで、行方郡では特産}れは当品として戦前から戦後を通じて生産と品質向上に努めている。藁工品は、舟運によって佐原駅船溜りに集荷された。昭和二十七年五月一日の「いはらき」新聞は「暴落よそに船に山と積んで行方郡のワラ工品」と報じており、戦後も舟運で集荷されていたことがうかがわれる。なお昭和十二年の佐原駅における貨物発送の主なものは、米二万一五00トン余、麦二九00トン余、木材問、繭二六00トン余、縄問帆二五00トン余などであった。}れに対して到着貨物は、肥料一万五八OOトン余、油類四六00トン余、塩田二00トン余、石炭二五00トン余、明治末・大正期の潮来地方飼料一七00トン余であった。}のように、水郷地帯の千葉県側で鉄道網の整備が進め霞ヶ浦鉄道の免許申請られて行くのに対して、茨城県側でも鹿行地方の名望家層の中に鉄道建設の気運が盛り上がった(国立公文書館所蔵「鉄道省文書」)。大正十年七月二十一日、東京在住の有志が常磐線高浜駅を起点とし、第2章小川、玉造、麻生を経て潮来に至る延長二六マイルの鉄道建設を計画したと「いはらき」新聞は報じた。ついで、翌年九月三十日、震ヶ浦鉄道の線路敷設に関する免許申請が、発起人代表の寺田建一(東京府下在住)らから茨城県を経由して鉄道大臣に提出され、同年十二月二十二日に免許を下付され、その中で十三年六月二十一日までに工事施行認可申請を提出するよう命じられた。この計画は、行方郡玉造町から麻生、牛堀、潮来を経て延方に至る区聞に地方鉄道法に基づく鉄道を敷設し、一般旅客及び貨物の運輸業を行うというものであった。もっとも、発起人は寺田のほか、東京府下在住の岡田忠、龍居豊、台寛三郎、原田照、柳生基夫、神奈川県橘樹郡鶴見町在住の森本一雄ら七名で、県内及び地元行方郡内在住者はいない。この申請について、茨城県知事は「この地方は、交通機関がなく、わずかに霞ヶ浦を航行する汽船に依存しているありさまで、甚だ不便である。}の計画が実現すれば、}の不便を緩和できる上に、すでに免許を得ている行方鉄道株式会社(石岡町・玉造町間)と相倹って有益である」と高く評価している。}こで言う行方鉄道とは、のちの鹿島参宮鉄道(現在の一歩先行く行方鉄道鹿島鉄道)の前身で、行方郡要村(現北浦村)出身の実業家で代議士の高柳淳之助を中心に、石岡町の有力者らが推進した鉄道計画で、大正十一年九月三日に社名を行方鉄道株式会社から鹿島参宮鉄道と改め、会社を創立している。もっとも、行方郡に常磐線と結ぶ鉄道路線の建設計画が持ち上がったのは、これが初めてではなかった。明治四十五年(一九一二)一月、高浜駅を起点とし、玉造、麻生、潮来を経て延方に至る行方軽便鉄道の建設が叫ばれ、期成同盟会が組織されている。}れは、霞ヶ浦水運の重要な河岸で常磐線との接続駅でもある高浜を起点に、震ヶ浦の東岸を南下し、玉造、麻生、潮来を経て鹿島大船津の対岸にある延方に至るもので、633さ