ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代らに延方から鰐川の渡船を利用することで、鹿島参宮のための鉄道路線現として機能するものであった。}の計画は、東京の中田敬義を代表とし、近東京の発起人八名、地元の発起人九名によって推し進められた。同年五月には鉄道院技師による実地踏査が行われるなど、地元でも建設の気運Vが高まった。また大正二年(一九一三)五月五日には、玉造で計画路線の地主会議が開催されたという。しかし、}の計画は資金調達が捗らず、大正五年七月に免許失効となってしまった(藤崎謙「関東鉄道前史」『麻生の文化』一O号)。ついで、大正八年二月には、実業家で代議士の内田信也の後援を得た「行鹿貫通軽便鉄道」が資本金一二O万円をもって会社を設立した(「いはらき」新聞大正七年二月七日)。また、同十年には後述する霞ヶ浦鉄道計画につながるコロ同浜潮来鉄道」建設の機運が高まった。これも、常磐線高浜駅を起点とし、小川、玉造、麻生を経て潮来に至る総延長二六マイルの軽便鉄道であった。「いはらき」新聞は、その動向を次のように報じている。高浜潮来鉄道東京有志運動新治郡高浜町を起点とし、小川、玉造、麻生を経て潮来町に至る延長二六マイル'余(資金二百万)の霞ヶ浦鉄道株式会社を創立すぺく、行方郡行方村出身大和新聞理事大輪薫郎氏主唱となり、麻生病院長鈴木瀬衛、行方村会議員平山保両氏等極力地方有志を勧説中にて、先に行方郡役所に於て開催せられたる町村長会議に於て同計画は満場一致の賛成を得、何れも発起人となり尽力することと決したるが、同地方は大正三年中鹿島参宮鉄道企画ありついで大正八年中同様の計画何れも財界不況の影響を受け、有耶無耶に中止し居るも、今回は其当時の発起人塚本県会議員、前潮来町長山本三平諸氏の同意を以て補記入賛成者調印を取纏め、出願する筈にて、大半は東京有634志間に於て株金出資する予定なれば、必ず成立する見込みとなりと(大正十年七月二十一日)。このような、さまざまな行方鉄道計画が提唱されるなか、高柳の計画が一歩先んじた形勢で具体化したのである。新たな行方鉄道計画の主唱者高柳は行方郡要村(北浦村)出身の代議士で、当初、常磐線高浜駅を起点とする案を高浜町の有力者層に提示して協力を求めたが、十分な理解が得られず、これに代わって積極的に参加したのが石岡町の実業家たちであった。}のため、彼は行方鉄道計画の起点を石岡駅に変更した。その石岡駅を起点として玉造に至る区間について、高柳は、大正十年十二月十二日に行方鉄道会株式会社として免許交付を受けた。なお、)の区聞は、同十三年六月八日に石岡から常陸小川までの区聞を部分開業し、ついで昭和三年(一九二八)二月一日に玉造まで開通している。また、藤崎謙一氏の研究及び『関東鉄道七十年史』挿図によれば、行方鉄道には石岡・玉造聞に加えて、玉造・鉾田間及び玉造・延方聞に路線を建設する計画が存在したようであるが、大正十一年一月には、資本金を七O万円増額し、路線を玉造から鉾田町まで延長すると発表した(『関東鉄道株式会社七十年史』)。}れについて、高柳は募債趣意書の中で「特に鉾田町までの開通は、鹿島軌道、北浦汽船と連絡して官幣大社鹿島神宮に参詣する順路となります」と述べている。}れは、なお多大な建設費を要する潮来・延方方面への延伸より、最短距離で北浦航路及び計画中の鹿島軌道(大洗・鉾田・息栖間)と連絡することで鹿島参詣客をかつ鹿島郡役所等のある鉾田町に路線を延伸するほうが経営上からも得策と判断したものと考えられる。行方鉄道は、同年六月に玉確保し、造・鉾田聞の免許交付を受け、昭和四年五月十六日にこの区聞を開業し、