ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
明治末・大正期の潮来地方第2章制定された背景には、第一次世界大戦後の商品市場の発展や農作物の商品化のいっそうの進展によって、地方名望家層が道路の改良に強い関心を持ち始めたことがあげられる。行方郡でも、大正九年三月の臨時郡会で五路線が郡道に指定され、延方村から津澄村に至る区間や要村にいたる区聞が含まれた(「いはらき」新聞)。道路法の制定は、近代的な道路行政の枠組みを示した点では画期的なものであったが、実際には幹線道路や地方主要路線でも維持管理の関係から町村道に指定されたものが多く、関東大震災、昭和恐慌、日中戦争大生原村水原地内の道路とうちつづく経済低迷に悩む町村では、管轄する町村道の府県道への格上げや維持費用分担の見直しを園、県に求めざるを得なかった。また、じきょくきょうきゅう昭和恐慌下の農村では、その失業救済や時局匡救といった名目で、官費による道路工事が盛んに行われた。たとえば、昭和八年度には、土木事業費として総額一万一一O O円が潮来地方の四町村に配当された。}のうち、津知村では三八OO円を配第V-41図当されたが、全額を土木匡救事業として道路工事に充当している。また、昭和十年度には津知村で臨時に道路改良費が組まれ、行方・津知村聞が改良箇所とされた。昭和十年(一九三五)十月、津知、大生原両村は、潮来町・津知村間の町村道の県道移管を県に陳情した。}の案件は、周辺町村へも波及し、翌月末には大生原村・津知村聞の延長六キロの、町村道の県道編入を求める陳情が、潮来町ほか関係町村から県に寄せられた。この運動は大きな盛り上がりを見せ、翌年これらの区聞は県道に昇格しまfこた道路網の整備と平行して、潮来地方にも自動車輸送が登場した。潮来町の登録自動車台数は、大正十年には二台であったが、十四年には六台、昭和五年(一九三O)には一一台、同十年には一九台に増加してい637