ブックタイトル潮来町史

ページ
653/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている653ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

明治末・大正期の潮来地方第2章来地方の交通事情は、行方郡南部を縦貫する鉄道計画の、相次ぐ頓挫による停滞状況から脱しつつあった。なお鹿島参宮鉄道は、各社パス路線の戦時統合にあたり、茨城県第三地区のパス事業者統合主体とされた。}のため同社は二二社を統合し、総営業キロは約五五九キロに達した。鉄道、自動車や道路網、橋梁の発達の一方で、実に中世舟運から水郷遊覧ヘから近代まで潮来地方の繁栄を支えてきた舟運は、大正末期から昭和初期にかけて物資輸送の主役の座を明け渡延方村新宮地内を行く路線パスし、水郷観光の一端を担うという機能に後退していった。鹿島参宮鉄道は、大正十五年八月十五日、常陸小川・浜(玉造町)聞を開業した。そして、会社設立の目的であった鹿島参宮客の一貫輸送を実現させるため、浜駅から霞ヶ浦経由で鹿島大船津にいたる連絡船を運航させることを計画し、船体を発注した。昭和二年(一九二七)、「参宮丸」「霞丸」「鹿島丸」が相次いで竣工し、五月十七日から浜・麻生・牛堀・潮来四丁目・鹿島大社聞に、連絡船の営業を開始した。)の航路は、第V-46図近隣地区の小学校の修学旅行や青年団、その他団体客の利用で活況を呈したという。しかし、昭和恐慌の影は水郷観光にまで及び、昭和六年には「町村ノ疲弊ハ益々甚シ夕、運賃ノ低減、団体ノ勧誘、海水浴客ノ誘致等種々策ヲ施セシモ、其ノ効果ナク」と言われるまでの状況に陥っていた。のため、鹿島参宮鉄道は、昭和二年十二月に開業した浜・田伏・志戸崎・牛渡航路を翌年四月に休止し、昭和四年十二月一日に開業した佐原航路も、当初は鹿島、香取両神宮への参拝客が多いと見込まれたものの、同六年六月一日に廃止している。このような通船事業の不振の中で、かつての内国通運の汽船事業を引641