ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 658/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている658ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている658ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
代現近第五節土地改良事業V明治維新を迎えた時、潮来町域の大部分の人びとが水とのたたかい農業生産に従事していたことは、本編各章において詳述されているとおりである。本節では、その農業生産の舞台となった土地基盤整備のあゆみをみていくが、その前にまず、近代潮来町域の地理的空間を概観し、農業生産の土台となった自然条件川地勢を確認しておこう。本町は東西一里余南北殆ど三里に百一り、潮来大洲の二部より成る、西北には稲荷山弁天台天王台等の丘陵を負ひ其間に田圃あり、市街の東南一面に低地にして緯らすに水を以てす、大洲と二重谷の間に湾入する内浪逆浦と云ふ、田圃遠く開け其聞に多くの河水溝渠縦横にあり、北利根川浪逆浦前川等に通じ灘統舟橋共に便なり、二重谷の一部は北利根川の下流を越へ、狭長なる土地遠く東南に延び浪逆浦の西辺を繰り香取郡の地と接する所の境界実に犬牙錯綜たり、大洲は前川の南岸にあり、西は津知の飛地と潮来に連り南は湾入したる内浪逆に浜し北は前川を隔てL延方の須賀曲松の地に向ふ東は延方徳島に境し共に平坦にして島唄の如き地形なり(昭和二年『行方郡郷土史』「潮来町之部」)。本村は潮来町の東北に位し其の地形は南北に長く梢々長方形をなし市して東南部は大字辻北は大字築地にして辻は地勢一帯平坦にして民家概ね商業を以てす、西南は潮来町を以て境し東北は稲井川を挟んで延方村に堺す、又築地は岡丘の地にして山林原野多く到る所高低起伏して連日一せる耕地少く其の高きは概ね山又は畑宅地にして低646きは水固なり、民家は各所に散在して西は八代村北は大生原村と境す、大字辻の東南部に北利根川の支流たる前川あり、延方村を経て鰐川に注ぐものにして北浦より西浦文は千葉県佐原町又東京市に通す船路に当るを以て大いに舟椅の便を得しむ、然れとも一朝東南風に加ふるに豪雨を以てせんか河水氾濫其の惨害の及ぶ所測り知るぺからざるものなり、将来利根河身改修の竣功を告くれは或は惨害を免かれん(前掲書「津知村之部」)。本村は北浦沿岸を除くの外大部分は岡阜をなし其台は広蓋各々一里余の大生原にして北浦を望めるあたりに人家散在す、畑も処々に見ゆれども大方は松林なり、是れより東すれば湖岸近くに至り急斜にして低地となる、此の地は湖岸に沿ひて帯の如し、西南部の岡阜は所調大生野原にして地質軽悲嬉土なれとも山林に富み本村人民の薪炭の材源地たり、然れとも漸次人口増加し耕地面積不足を告げ、近年開墾事業盛にして林間所々に畑地を見るに至れり、東北部は即ち北浦沿岸の地にして土地低湿耕田多く畑及宅地其聞に介在す、而して其地質は沖積土の抄壌地にして肥沃の地少なからず実に本村の耕地区域たり(前掲書「大生原村之部」)。東部は地低くして一円平坦なり田圃連日一す、西部は高低起伏し山林連接す、南部は前川鰐川と隔てL丙号地所謂徳島新田又向谷とも称し沖積土の水田一面に連日一す、北部は本村中最も高き部分にして岡丘相連り山林多し、要するに本村の地勢たるや殆ど半島形をなし西及北部僅かに陸に接するのみ、全地二大部に分れ、前川及鰐川を以て限り南を徳島新田とし、北を本村とす、徳島新田及鰐川北浦に瀕する土地低下せるを以て水害を被る事多し、民家多く居を東南部に