ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
占めて須賀方面より梢桐密なるも他は各所に散在す、徳島は居を東南端に占め外浪逆浦及鰐川に臨み耕漁を業とす(前掲書「延方村之部」)。このように潮来の地は霞ヶ浦、北浦、利根川、そしてそれらを繋ぐ水路にかこまれ、「水郷潮来」の言葉に表徴される豊かな水に恵まれた自然条件をもっていた。しかしこの豊かな水は観光と五穀豊穣の基ではあつh-SA、f・ヵひとたび大洪水がおこれば、人々に多大の痛苦をもたらすものでもあった。とくに潮来町域の耕地の大部分を占める二重谷、大洲、徳島の地域は、いずれも長期間にわたり水流が運んできた土砂が堆積してできた原野を、近世以来年月をかけて開拓して耕地化したもので、常に水害の危険にさらされていた。」の地域をめぐる治水の問題は、潮来町域の人びとにとって近世以来最大の課題であり、同時にこのことは、近代における土地改良事業の根幹を成すものでもあったのである。近代潮来町域における土地改良事業は、明治二十年代に行われた潮来、延方の築堤工事から始まる。明治二十四年(一八九一)第二代の潮来町長に就任した窪谷作太郎は、それまで収穫可能な年は三年に一度といわれた二重谷、大洲の耕地を水害から守るため、大洲区長、二重谷総代とと明治末・大正期の潮来地方もに築堤工事を計画した。しかしこの計画に対し茨城県当局は認可を不承認とし、対岸の千葉県側も霞ヶ浦遊水地の放水路であると理由から築堤に反対した。そのような状況にもかかわらず、窪谷は町会の議決を得、私財を担保に提供して土浦五十銀行から資金を借り入れ、地元農民の協力のもとに築堤事業を敢行したのである。工事は前川に沿って九一三問、北利根川、浪逆浦、鰐川に沿って六一三O聞の築堤から始められた。第2章の工事完成によって流水の横溢は防げたが、内外浪逆浦の境川狭海を横断して東西に連る堤防を築かなければ逆流を防止できず完全な水防の効果がなかった。しかしここに堤防を築くことは、他地域への影響が大であるとの理由で、度々の哀願にもかかわらず茨城県当局より却下されて、p '』。、vJJそこで窪谷町長を中心とする潮来農民は築堤工事を強行着手、高張提灯と竹槍を備え工事を阻止しようとする官憲と戦いながら昼夜兼行で工事を行い、ついに狭海の外堤一一一二聞を築いたのである。このよ当ノにして明治二十六年七月、前川堤九二ニ問、北利根川、浪逆浦、鰐川の延長堤六二ニO問、狭海堤一一三問、沖之洲堤一五OO問、計八六五六問、高さ二メートルの困撲堤が完成した。なおこの地元農民の力で築かれた堤防は、その後明治三十二年に県堤防に編入され、以後数度の改修がなされて現在に至っている。一方、延方村では徳島の築堤が潮来町同様に地元農民の努力によって推進された。延方村水田の圧倒的部分を占める徳島は、水害の常襲地域でもあり、明治初年には大水害による年貢減免をめぐって大きな農民騒擾も起きている(第一章「地租改正と農民」参照)。明治二十年代半ば、地元有志の茂木重蔵、松本久一、折笠清吉などが発起人となって徳島築堤の許可申請が茨城県に提出された。しかし県ではこの地域を洪水時の遊水池とみなし、築堤により川幅を狭めることは他地域へ悪影響を及ぼすとの理由で許可しなかった。そこで地元農民は、無許可のまま明治二十六年十月築堤工事を開始し、県当局の激しい圧迫と取り締まりのため一時は二O余名の農民が逮捕され、一週間の拘留処分を受ける事態も発生した。しかし、これらの圧迫にも回することなく夜間ひそかに工事が続行され、明治二十八年六月には堤形を整えるまでに至ったと伝えられてv)いる。ちなみに、当時の延方村長今泉覚次郎の名で県知事宛に提出された「堤塘築造ノ義-一付哀願」は、水害に悩まされる延方村の悲境を次のように訴えている。647