ブックタイトル潮来町史

ページ
664/1018

このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている664ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

潮来町史

代分されていた延方村を、干拓によって陸続きにすることを計画、地元選現出の県会議員や有力村議に働きかけた。村当局でもこの干拓計画をとり近あげ、県や国に陳情を繰り返し、昭和二十七年、茨城県による地区干拓の調査が開始された。この間、昭和三十年に新潮来町が誕生、初代町長Vに干拓推進派の藤岡鉱二郎が就任したこともあって干拓推進の気運が盛り上がり、昭和三十四年に国の事業として着工された。そして昭和四十一年九月、総工費八億六OOO万円をかけて、総面積二六八ヘクタールの延方干拓が完成したのである。この延方干拓については、事実上の提唱者であり、干拓推進にきわめて大きな功績のあった立野三司が、詳細にわたる証言を残している(『ふるさと潮来第二輯』)。」の立野の記述から干拓の経過を見ていごう。旧延方村は水田耕地の七割を丙号地に依存して居った。笹葉舟(三糎位の厚さの杉板で作った一臨積み位の木造船)を操って前川(今の干拓地)を渡り、一区画五アール乃至二0アール位の水田には皆幅二米位のクリークが付いて居った。此の丙号水田は狭い所で九O米、広い所で二OOO米の前川を隔てた川の向ふになって居たもので、往時旧利根川の沖積地を開墾し川底の土を助簾にて笹葉舟にすくい揚げ客土し非常に良質の肥料にもなったので、農家は競って春先にもなれば此の作業を毎年続けて高くした水田であった然るに昭和二、三年頃から農耕は鍬万能から牛耕に変り小さな笹葉舟に六、七00キロもある牛を笹葉舟の中央に乗せ其の後と前に牛耕用の農具(撃砕土用)を積み此の河川を往復した。耕作については「よい」が行はれ、特に田植作業等は日程を作って計画的にする為め少し位の雨風には無理押しして前川を渡り農作業をしたのである。652為に、この前川では年間四i五回の笹葉舟の転覆事故は珍しくなかった。特筆すべき水難事故としては昭和十六年五月十九日に東京江戸川寺島常会員・凸版印刷会社職工の一行が日支事変戦捷祈願の為め、鹿島神宮に水郷汽船会社のモーター船にて参詣の帰途に起った惨事であった。当時としては、東京・佐原・潮来・鹿島方面の交通機関とした唯一の水郷鹿島株式会社所属のモーター船で定員三O名のもので八隻位を所有し、定期的に佐原を出て利根川を下り香取神宮、津の宮鳥居河岸を経て対岸の篠原水門を下り与田浦を横切り、十三枚・大場河岸を経て加藤洲十二橋を樟して通り、北利根川に出て潮来福禰旅館河岸に接岸、それより前川に入り、四丁目源兵衛河岸(当時二階建の旅館で潮来では角菱と共に旅館の元祖)、辻山本汽船部、延方曲松土井(綿屋河岸とも云った)、延方洲崎の地蔵河岸(大久保汽船部)そして大船樟(青山汽船部)を往復して居った。大正から昭和にかけて、舟運の盛んな時代は、以上の汽船宿は客の乗降、荷物の積降しで随分華やかなものがあった。此の航路のモーター船を利用して前述の凸版印刷の職工と江戸川寺島町常会の一行が帰路に際しての事故であった。其の後終戦後、神奈川県相模湖の道難事故、青函連絡船洞爺丸転覆事故等々大きな事故は大分多くあるが、当時としては稀に見る大きな事故で、その頃日支事変は終息することを知らない程発展しており、数知れず死傷者の出て居った時であったが、現地の兵隊までが故郷の大ニュースとして話し合ふ程の事件であった事からも当時としては如何に大きな遭難事故であったかを窺い知る事が出来よう。場所は前川の三文沖と称されて居った洲崎地蔵河岸沖に差しかLった時三角波を食って転覆四九名の死者を出した事は余りにもいたましかった(定員オーバーも居った)。かLる危険な場所を農家