ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
明治末・大正期の潮来地方第2章は櫓や樟によって往復したのであった。後に少しの期間(干拓になる直前の五、六年前)は、笹葉舟に動力スクリュー船になったが其の労苦は想像に絶するものがあった。以上のような農耕の状態のなかで、当時二十四、五年頃は社会主義的農民運動が派閥的に盛んに行はれたため延方地区には三つの農業共同組合が生まれた。この三つの農協が生まれたことは後の農協運営に非常な障害となった。そのなかの一つの延方農業協同組合長の関沢竜氏がこん延方干拓の竣工記念碑〔潮来町延方〕そして不安な農耕状態では困るから、前川の適当な箇所に架な危険な、橋すべきだと言い出した。これにヒントを得た筆者は昭和二十四、五年頃は終戦後のドサクサ未だ消えず、食糧は不足して居り就職難でもあり、二、三男対策等にも考慮して橋よりも干拓して陸続きにすることが一石二鳥にも三鳥にも通ずることと考えた。丁度昭和二十六年四月二十二日県会議員の選挙が行はれ、行方郡から旧潮来町の藤岡鉱二郎氏、旧麻生町の高橋渡氏、其の外旧津澄村今は北浦村の高柳正次郎氏、旧秋津村今は鉾田町の市村一衛氏が立候補して藤第V-53図岡鉱二郎氏が二期目、高橋渡氏が初陣で両氏が当選した。終戦後日本は米国の支配する処となり、大東亜戦争遂行の米軍司令官マッカlサ1元帥が日本に乗込んで来て日本を統治する軍政が布かれ、其の中で、て?ツカlサl指令により、戦争推進若くは協力者に対して公職追放と云うきびしい制度があった。公職追放とは選挙による役員又は官公吏の就職に当っては、道府県の資格審査委員会に申請して審査にパスした者のみが立候補文は就職することが出来た。勿論追放該当者(パlジ)は世捨て人の様になって凡ての公的会合には顔も出せなかった。たまたま昭和二十六年五月二十五日に追放解除令が出された。昭和三十年の町村合併以前は、八代村、潮来町、津知村、延方村、大生原村の一町四ケ村を組合町653