ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代村と称し種々の行事は共同で行はれ至極密接なものがあった。上述の関現係から追放グループは密接な関係があったので、解除後早速会合が持た近れ追放同志会と称し、親睦会を随時聞くことにし今なお継続して居る。V折りも折り先に準会員の藤岡鉱二郎が二期目、高橋渡氏が県議当選の祝賀を兼ねて吾々の追放解除祝いが計画された。メンバーは八代村の明間泰次郎氏、浅野誠氏、潮来町の塚本勝利氏、大塚震氏、中村源次氏、加藤利男氏、塚本長一氏、津知村の大川豊太郎氏、延方村の筆者、草野吉衛氏、石山秀雄氏、篠塚藤吉氏、大生原村の石津政嘉氏、原英夫氏、箕輪治雄氏の各氏外に準会員として女傑二人県議二人計一九人であった。実施日は明確を欠くも記憶としては昭和二十五年六月下旬、田植え終了後、方言では農仕上げともいった。当時田植え作業は中農級(一へクタール位)以上の者は、田植え準備(下椿え)二O目前後、田植えが二O日前後、通して四O目前後鍬万能を使つての作業は非常な重労働であった為め、嫁婿は田植え作業が終ると農仕上げ泊りといって里方に帰って休養をとったものだ。此の農仕上げ泊りは結婚後一O年至一五年位まではやかまし三日から五日位は普通であった。姑の八釜敷い家の嫁婿は一O日から半月位のものもあった。上記の追放解除祝いはその農仕上げの農閑を利用して実施されたのであった。方法が又特異なもので、石山醤油屋(同志石山秀雄氏)の輸送船を提供して貰い、準会員として芸妓の梅葉(今の梅廼家の女将)、雀の二人(一九人中女傑二人とはこのこと)が、無料サービスで同船し、潮来水雲橋の快から乗船して前川を通り、地蔵河岸にて篠塚藤七商居より(当時はまだ酒煙車等も配給制で思ふにまかせなかった)酒、ビール、肴を積み込み鰐川を下り、息栖神社に詣で柏屋旅館にて昼食を取り、北利根川(今の常陸利根川)を湖上して潮来に帰還、当時としては大変豪華版であった。船中の状況は読者の御想像に委ねるとして、本論に入るのであ654るが、前川の途中酒類其の他を積み込んだ地蔵河岸に、両県議に下船して戴き、堤防の上から前川を見渡して貰い、干拓にすべきである事の必要を屡々説明申し上げた。ところが、高橋県議は当時隣村の小高干拓が非常に困難を極め、当時未だ悩みを持って居った関係からとも察せられたが黙して語らなかった。同行の同志の中にも何人かは立野お前何を夢見て居るかと噺笑するものもあった。しかしながら二年生議員ともなられた慧眼の藤岡県議は面白い構想だ、県とも相談して研究してみようとのご意見であった。力を得た私は早速其の翌日から運動を展開した。先ず地元村会議員で当時議員の立野藤司氏、議員の久保政喜氏、立野藤正氏に其の仔細を伝えて諒解を取付けた。其の後延方村の執行部(当時村長山野三保之助)の取り上げる所となり、村ぐるみで県と国に陳情が繰り返された。運動も度重なるにつれ熱気を世帯び、干拓気運が高まって来たので昭和二十七年に茨城県に於て初めて地区干拓の調査が開始された。県営にするか町の代行干拓にするかについてもかなりの研究がなされながら、昭和三十年に町村合併促進法に則り、大生原村、延方村、津知村、潮来町の一町一二ヶ村の合併が成立し合併新潮来町が誕生した。初代町長に藤岡鉱二郎氏が選任され暫定措置として地区住民感情等も考慮して、各旧村地区役場跡に支所が置かれ支所長の下、数人の職員が配置されて行政の執行に当った。しかしながらその後一年位にして財政上のことなどもあって、支所は廃止されその建物は公民館分館の拠り所として今に至って居る。合併当初の町長となられた藤岡さんは、それ迄に県会議員として此の干拓問題に取り組まれていた関係から、新潮来町になってからの促進運動を展開するにしても大変好都合にて陳情運動も無駄なく順調に運ばれその効果も一段と高められ