ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第一章狩りとすなどり第一節旧石器文化のなりたち洪積世の終わりの頃、震ヶ浦は内海で、長い間降り注い暮しと環境でいた火山灰も少なくなり、火山活動の落ち着きによって植物も次第に繁茂しはじめている。堆積した火山灰ゃ、その後に堆積した腐食土などを調ぺると、化石となった花粉が残っており、顕微鏡で花粉を調べると、カラマツ、エゾマ、yアオモリトドマツなどの亜寒帯針葉樹林がやコメツガ、マッハダっと繁茂し始めていたことがわかった。植物相が変化すると、当然それを求めて動物が移動している。}れまでの研究では、当地方には、北から南下したナウマンゾゥ、エゾオオカミ、へラジカなどの大型動物ゃ、一ホン、ザル、一ホンジカ等の動物が生息するようになっていイノシシ、狩りとすなどりたようである。動物の移動によって、狩りを中心に生活をしていた旧石器人たちは、これらの動物を求めて、一緒に移動したようで、東北から出土している各種の石の道具と同じものが当地方からも出土している。第1章潮来地方では、旧石器時代の遺物はいまのところ確認されていないが、北浦の対岸にある鹿島地方では、約三万年前から一万五OOO年前の石の道具が多数出土している。鹿嶋市宮中字伏見にある伏見遺跡(現在清真学園地)は、標高三01四0メートルの舌状に伸びる台地の縁辺部の火山灰(関東ロ1ム層)の中から集中して、玉髄、頁岩などの石材で作ったナイフ形石器、尖頭器、剥片などが約七O点が出土している。ナイフ型石器は、旧石器時代の中心的な道具で、霞ヶ浦周辺では、鹿嶋市の鉢形、木滝、鍛冶台、土浦市の向原、木田余、麻生町の二本松などからも出土しており、旧石器人が獲物を求めて絶えず移動していた様子がわかる。この道具は、人聞が細かい作業のなかで最初に作ったもので、加工をより高度にしたものである。)れらの加工技術の向上により、主食となる動物の解体作業が容易になる。まず、ナイフで動物の毛皮を剥ぎ、毛皮の裏についている脂肪を削ぎ落とすことによって、毛皮を着るもの、靴、テント、敷物などに利用することができ、解体されて残った骨は、髄が食料となるため、立ち割られ、残った骨は、彫刻されて装飾や信仰のための偶像が作られている。これらの道具を使った人びとは、動物を追い、わずかな植物の根などを食料とし、毛皮などで作ったテントを持って絶えず移動していたことが、火山灰の中に焚火の跡ゃ、道具を作った跡(石の道具を作るため、石をたたき割る道具ゃ、たたき割られて細かい剥片が散乱している場5