ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
イ学年度中欠席せさる者には桜花形紫徽章を授与すロ欠席七日以上に上らさるものには桜花形青緑色の徽章を授与すノ、病気欠席十日以内のものには蒲色桜花形徽章を授与す第五条第四条の各項により授与したる児童にして後に事項のため欠席したるものありたる時は既授の徽章を返還せしむ第六条第四条の各項により授与したる徽章は着衣の左肱部に縫付け常に出席すぺし第七条学年末に於て更に出席の成績を調査し口賞或は賞状及賞品等を授与し表彰す第八条表彰式は学校に於ての儀式挙行当日併せ行ふものとす大生原村においても、津知村と同様の施策が講じられていた。「大生原村是」によると、明治二十八年に父兄懇話会、明治四十一年に母姉懇話会、明治四十二年には奮老会を設立し、これらの会を通じて学校と家庭の関係を密接にしながら、就学義務の重要性を訴えていた。同時に、貧困により子守をしているため一定の時間に学校へ行けない児童に関しては、別に時間を設けて授業を行っていた。また、津知村とほとんど同明治末・大正期の潮来地方じ内容の学齢児童保護会を設置し、就学奨励規程を作って就学の援助を実施していた。「大生原村是」には、「就学督励ハ従来諸種ノ方法ヲ以テナシ来リタルヲ以テ明治三十八年以来引続キ就学歩合百中百ニシテ一ノ不就学ヲ出サス、依リテ今後ハ現状態ヲ持続スルノ方法ヲ取ルコト肝要ナレパ就学奨励費ヲ置キ貧困者一一対シテハ種々ノ便宜ヲ与へツツアリ」と記されている。第2章このように貧しい人々を補助しながら出席を奨励して、優秀な成果を挙げた者を表彰する方法は各地の小学校で採用された。こうした施策を推進することにより、明治末には潮来地方においても国民皆学が実現されていったのである。明治二十五年(一八九二)以後になると、法規の整備を行国民思想統合への道なうとともに強く就学を督励し、明治時代の末には国民皆学が実現していったが、就学率の向上は国家にとっても重要な課題となっていた。明治二十二年に大日本帝国憲法を発布し、翌年には帝国議会を開設して、日本はアジアで初めての立憲国家となった。また、欧米の資本主義国家は製品の販路と原材料の供給地を求めてアジアへの勢力拡大を意図していた。欧米諸国へ追いつくことを国是としていた日本は、西欧諸国の動きを追うようにアジアへの勢力拡大を図った。このような国策を推進するためには、国民全体に一定レベルの知的能力とともに、国家への忠誠心を身につけさせることがきわめて重要な条件となった。そして、これらの条件整備を行う最も重要な場が、小学校教育であったのである。すでに明治二十三年に教育勅語を発布し、御真影の配付を行っていたが、日清戦争以後になるとさらに国民の思想統合の必要性が叫ばれた。こうした流れのなかで、明治三十七年からは固定教科書制度が開始された。直接的には明治三十五年に表面化した検定教科書採択にともなう大疑獄事件をきっかけに固定教科書制度が一気に導入されたが、教科書国定化の動きは前から計画されていた。固定教科書は、明治三十七年四月から修身、国語、日本歴史、地理の使用が開始され、翌年に算術と図画が使われるようになった。固定教科書制度の発足は、特に修身、国語、日本歴史などの教科を軸にして、国策を忠実に反映した学校教育が推進されていくことを意味していた。固定教科書の使用にあたって津知村では、明治三十七年五月十五日に659