ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代は役場から小学校へ、新しい校務日誌とともに固定教科書教授細目が配現付されている。また五月二十日には、麻生尋常高等小学校において固定近教科書研究講習会が、翌日には同校において行方郡教育会総集会が開催Vされた。この二日間は学校を休校にして職員が出席している。固定教科書使用開始にあたっての細かな注意ゃ、指導上の留意点が指示されたものと考えられる(『津知二小百弐年の歩み』)。また固定教科書制度が実施された、明治三十七年には日露戦争が開始され日本軍は大国ロシアと激烈な戦争を続けた。戦争は翌年、アメリカ合衆国大統領ルlズベルトの斡旋により、ポlツマス条約を締結することにより終わったが、日露戦争は教育の現場へも直接的に影響を及ぼしてきた。『津知二小百弐年の歩み』の記録によると、戦争に出て行く兵士の壮行会、戦死した兵士の遺骨の出迎え、局地的な戦闘に勝利した時の祝賀行事などが次々に行われている。明治三十七年九月五日には、遼陽占領の祝捷会が行われ、辻の硯宮社前へ集合して旗行列をした。明治三十八年一月四日には、旅順陥落の祝捷会を聞き、}の時は提灯行列を行リっている。また、日本海海戦で日本がパルチック艦隊を破った時には、五月三十日に日本海海戦大捷記念として、教卓一脚を新調した。明治三十九年四月三日には、津知村から出征した兵士の凱旋歓迎会が、津知第一尋常小学校の運動場で実施され、}の時には職員が児童を引率して参加した。日露戦争の後になると、小学校の教育環境が整備されて小学校教育環境の整備、っh』。、UV4Jひとつは、明治四十一年(一九O八)度から実施された義務教育年限の延長に対応する動きであった。れまでは尋常小学校の四年間が義務教育であったが、明治四十一年度からは尋常小学校の修学年限が六年間に延長されたのである。}れは、この尋常小学校でも児童数が一・五倍に増加することを意味していた。660また、高等小学校の設置も大きな課題となった。高等小学校は、明治十九年の小学校令により設置され、潮来町域では潮来尋常小学校の一部を割いて行方郡第二高等小学校が設置されていた。これが明治二十五年からは、潮来町立の潮来尋常高等小学校となった。潮来町に続いては、明治二十六年四月に延方尋常高等小学校が、明治四十五年に大生原尋常高等小学校が設立された。津知村においては、大正時代になって高等小学校が設立されている。ここで、明治後期から大正時代にかけての、各町村の動きをまとめておきたい。潮来町では、明治二十五年に大字潮来にあった小学校が潮来尋常高等小学校となったことに対応して、大洲にあった大洲分教場が潮来尋常小学校と改称した。潮来尋常高等小学校では、高等小学校への入学者の増加などにより教室が狭くなり、明治三十九年四月には潮来の関戸家の一部を借用して分教室とし、児童を収容することを余儀なくされた。その後、校舎の増築が計画され、明治四十四年五月には本校校舎一六O坪の増築が完成し、同年七月には分教室の児童をすべて本校舎へ収容した。この時には、同時に潮来尋常小学校の校舎改築も実施している。明治三十八年五月には、潮来尋常高等小学校の十番分教場が-設置された。村錠を作り、明治時代になってからも独特の土地所有形態を持ってきた二重谷組は、明治三十四年に土地占有権を各戸に分割することにより、その歴史に幕を閉じた。また、明治二十六年には二重谷にも堤防が作られて、洪水に対する第一次防衛が完成した。このため、二重谷の一v}角を占めていた十番地区に定住する人々が増加し、明治三十五年には潮来町十番区を組織するにいたった(『潮来町小字考』)。こうして十番地区どの人口が増加してくると、かつての二重谷組地域の人々の通学の便を保