ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代以上小学校で開催し、学校状況の報告、児童成績品の展覧、授業参観な現どが行われた。敬礼規程には、各種の行事や場面に応じて最敬礼と敬礼に分けて細かく規定されている。このうち最敬礼に関しては、「最敬礼皇后陛下並ニ其御真影及他ノ皇族-一対シ奉リ、又ハ勅語近Vノ、天皇陛下捧読ノ際之ヲ行フモノニシテ、直立シテ姿勢ヲ整へ目ヲ敬礼スベキ人一一注キ静-一体ノ上部ヲ両手ノ膝上ニ至ルマデ前方ニ傾ケ再ピ徐ニ旧ノ姿勢-一復スルモノトス、但シ勅語捧読ノ際ハ少シク頭ヲ前方ニ傾ケテ之ヲ謹聴シ棒読終ルト同時ニ最敬礼ヲ行フモノトス」と規定されている。一一一大節における勅語捧読の時には}の規定によって行われたわけである。また大正十年に作られた宿直規定によると、宿直の第一の仕事は「御勅語ノ奉護」と規定されていた。これらの諸規定をみると、地方改良運動が展開されていくなかで、学校教育が忠良なる臣民の育成を柱としながら、各分野について内容面の充実が図られていった動きを感じることができるのである。延方村においては、明治二十六年に延方尋常高等小学校が成立し、徳島に尋常科のみを設置した分教場があった。延方尋常高等小学校においても義務教育年限の延長によって、校舎や運動場が狭くなり、明治四十二年には校舎の増築と運動場の拡張が行われた。大正時代に入ってからも大正七年、十年、十一年と小刻みに教室の増築が続けられ、運動場も少しずつ拡張が続けられた。また、徳島分教場は明治三十九年十一月に、徳島尋常小学校として延方尋常高等小学校から独立した小学校となった。しかし、徳島地区の児童のうち高等小学校へ進む人々は、延方尋常高等小学校へ通学する必要があった。時代の進展とともに、高等科へ進む人数は増加していったが、徳島地区の場合には通学の不便さがあった。」れについては、大正八年に延方尋常高等小学校を卒業した額賀藤重氏が『延小百年史』に寄せた文章を次に引用しておきたい。662私が延方小学校高等科に入学したのは今から六十年前のことである。その日は延方小の入学式であったが、引率者の徳島小学校長が徳島小の入学式をすませてという事で出発がおくれ、延方小に着いたのは午後四時頃、事務室で前島保吉校長以下職員に紹介された。御土産に清酒一升天ぷら一包差しあげたことを覚えている。受け持ちは笹目広介先生、背の高い方であった。翌日笹目先生の紹介で教室に於いて、級友と対面した。級友の多くは延方小の人、辻小から男二人女二人、徳島小から男四人全部で三八人位いた。さあこれからは通学のため私は毎朝六時に家を出て、友達と待ち合わせながら約一時間歩いて渡船場まで行く。渡船は延方行きは中堤の右側の吉川氏と左側の高田氏、十日毎に交代で渡してくれた。帰りは東区境川、篠塚吉衛門老人で、中堤の所まで渡してくれた。渡船賃は延方村持ちであった。午後からの雨降りの時は雨具がないので役場に泊めてもらった。夜と朝の食事をよばれ弁当まで作ってもらったのだ。夏は堤防の道が狭いので草がいっぱいに交さくして市も露を含んで、・30L21そこを一人が三尺位の竹棒を持って露払いをする。鞄を下げ、下駄は腰にしばり着物のすそを腰までまくって三十分以上歩くのでパンツはずぶぬれ「も」根」はさめはだの粒々が出来て悪寒さえ覚える。いやはやA寸思えば「ひどいかつこう」であった。徳島地区から高等科へ通学する児童は、今日の交通事情から考えると想像もできないような困難を克服して勉学に励んでいたことを明記しておきたい。大生原村においては、明治二十二年以来大生原第一尋常小学校が釜谷