ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

に、大生原第二尋常小学校が新築された大生原尋常小学校水原に設置されていた。しかし、戸数が三OO余の村でふたつの小学校を維持していく)とは財政的負担が大きすぎるし、教育効果の上からも芳しくないという意見が、明治三十年代になると多くなってきた。第V-54図小学校の合併問題については一O年以上にわたって村内便さが、議論を複雑化させる一番大きな原因であった。しかし、明治四の議論が続いた。通学上の不十四年になると村内の大勢が合併に賛成するようになった。村会の議決を経て周年十一月には、水原一九九O番地へ新校舎が落成した(『行方郡郷土史』)。明治四十五年一月に両校は合併して大生原尋常小学校となり、村内一円の児童が新校舎へ通学するようになった。明治四十四年には明治末・大正期の潮来地方「大生原村是」が完成し、地方改良運動の具体化が進む年であった。村是策定にあたって村をあげて調査、研究活動が活発に行われていく過程において、村民の合意が形成されていったものと考えられる。合併が完校が設立された。成した明治四十五年四月からは高等科を併置して、大生原尋常高等小学茨城県教育改善案発表会小学校への児童就学率は明治時代の末には、ほぼ一OOパーセントに達し、戊申詔書発布以来推進された地第2章方改良運動のなかで、教育内容の充実が図られていった。その際、日露戦争後の厳しい内外環境のなかで、天皇を中心とした国民統合をさらに強固にすることが教育内容において最も重視されたものであった。しかし、大正三年(一九一四)から開始された第一次世界大戦による好景気、そして戦後の大正九年から始まった長引く不況という現象は、日本社会を大きく変化させるものであった。資本主義の発達にともなって激化してきた労働運動ゃ、農民運動、女性解放運動などはこの時期の日本における新しい動きであった。また、学者やジャーナリストなどのな-hyF』+Aa、F』iこのような動きに理論的な根拠を与え、運動を指導していく者も少なくなかった。社会の変化のなかで、教育界においても新しい動きが出てきた。大正時代に新しく登場してきた教育に関するさまざまな主張や実践は、ふまん」めて新教育などとよばれた。多くの新教育論者の主張に共通している重要な点をあげると、従来の注入主義的な授業のあり方に対して、児童の考え方や自主性を尊重し、児童の個性を引出していこうということであった。このために、多くの学者や教育者がさまざまな方法を考察したのである。大正十年には東京で「八大教育思潮講演会」が開催され、全国的に注目されるものとなった。茨城県においては、大正十年から大正十四年にかけて、自由教育を実践した結城郡石下尋常高等小学校(石下町)などが有名である。}れは当時自由教育を推進していた、千葉県師範学校の手塚岸衛ゃ、中島義一らの影響を受けて実践されたものであった。また当時の茨城県知事守屋源次郎は、大正十年から十一年にかけて自由教育の講演会を中止させたり、自ら自由教育批判の論文を書いて、千葉県師範学校と「自由教育論争」を展開している。663