ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代からの学校の様子を窺える記述が多く含まれている。そのなかから大正現元年度から大正十二年度にかけて、学校で購入した図書を一覧表にした近ものが第Vl沼表である。この表をみると、年度を追って購入する図書Vが増加する傾向とともに、大正十年度以後の購入図書に新しい教育思潮に基づくものが多いことに気がつく。茨城県小学校連合教授法研究会は次々に各科にわたる研究録を発行し、茨城県の教育に貢献する所が大きかった。また、体操に関する図書が多いことも目につくことである。大正十一年の購入図書のなかには、新思潮と各教科の教授の実際に関する図書が数多く購入されている。また、河野清丸は「自動教育論」を、手塚岸衛は「自由教育論」を主張して大正十年の八大教育思潮講演会のなかに入っていたものであるが、大正十一年度にはこの二人の著書が購入されている。また小原因芳は、「全人教育論」を唱えて八大教育思潮の一角を占め、玉川学園を創立して教育実践をしていった人物であるが、小原の「修身教授の実際」を大正十二年度に購入している。八大教育思潮は当時の教育界においては一種の流行ともなっており、これらの教育家たちの著書を購入することが、直ちに大正時代の新教育の実践に結びついていると速断することはできない。しかし、津知尋常高等小学校においても職員たちが新教育に興味を抱き、これらの図書を購入して、教育活動のうえで参考にすることを考えていたことは否定できないであろう。農業補習学校に関する規程は、明治二十六年に文部省か農業補習学校の設立ら出された実業補習学校規程が最初である。農業補習学校は、尋常及び高等小学校の卒業生に対して、小学校教育の補習と実業に関する知識を与えることであった。教授科目は、修身、読書、習字、算術と実業科目であった。農業補習学校は、規程制定の当初はあまり設置されなかったが、日露666戦争の後に、政府の強力な指導で開始された地方改良運動のなかで、各地に設立されるようになっていった。潮来地方においては、明治三十九年に潮来町、津知村、大生原村に設立され、延方村では明治四十年九月に設立されている。潮来町では、実業補習学校という名称であり、そのほかは農業補習学校という名称でありいずれも小学校に併置する形で設立され、小学校の教員が指導にあ--つ--。サ'JJ具体的な成立の経緯をみると、津知村では明治三十九年に築地にあった津知第二尋常小学校へ設立された。その理由について「津知村是」には、「往年津知第二尋常小学校卒業児童の高等小学校に入学するもの少なし、依りて小学校教育、補習を兼ね農業上の知識技能を授くるの必要あるを認め明治三十九年五月三十一日設置したるなり」と記されている。津知第一尋常小学校は潮来町に近いこともあり、高等小学校への通学も比較的便利であったが、津知第二尋常小学校の通学区からは高等小学校へ通学するのに不便であったことも大きな理由であった。授業は小学校の特別教室を使用して行われ、明治四十二年頃の生徒数は男子三名であった。生徒は小学校で普通教科と農業に関する授業を受けながら、家庭の所有耕地の一部を使って実習地とし、農業実習の指導も受けていた。津知村では大正三年になると、津知第一小学校のほうにも農業補習学校が作られ、一村二校の体制ができた。大生原村においては、明治三十九年に、二つある尋常小学校へそれぞれ農業補習学校が併置された。「大生原村是」によると、大生原村では高等小学校が設置されていないため、その欠を補い、同時に実業思想の養成をはかるために農業補習学校が作られた。そして、高等小学校へ入