ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現近V大正6年の潮来女子技芸学校第V-56図としては農学校と商業学校があった。やや遅れて明治四十二年に県立工業学校が設立された。高等女学校についてみると、水戸市にある弘道館の敷地の一角に茨城県立高等女学校が設立されたのが、明治三十三年のことであった。次いで土浦町に茨城県立土浦高等女学校が設立され、水戸にあった女学校は茨城県立水戸高等女学校と校名を変更した。明治時代における茨城県立670高等女学校はこの二校のみであった。女子の中等教育がそれほど重視されていなかったこともあって、高等女学校の数は男子の中学校の数に比較して少なかった。しかし、県立の高等女学校は作られなくても、女子中等教育に関する地域の関心は少しずつ高まりをみせ、明治四十年代になると各地に学校が設立されていった。設置の主体は市町村や学校組合の場合が多く、その後の動きをみると、施設や教育内容の整備拡充をしながら、郡立や県立に移管していく学校が多かった。また設立当初の学校名は、実科高等女学校、実践女学校、技芸学校というものが多かった。潮来町においては、明治三十八年(一九O五)六月に地元の有志が、小学校を卒業した女子に実業を中心とした中等教育を授けようとして、稲荷山の上に仮開校したのが始まりである。学校は地元有志の寄付金と潮来町当局の補助金で運営されることになった。明治三十九年十二月の町議会において、稲荷山の学校を町立女子技芸学校として正式に発足させることが議決された。}れに基づいて潮来町長の磯山為吉は、文部大臣に設置認可の申請を行った。この申請は、明治四十年七月九日付で文部大臣から認可され、七月二十五日に潮来町立女子技芸学校として正式に開校した。潮来町立女子技芸学校では技芸科を設け、修業年限が三年の本科と、一年の選科のふたつの課程があった。募集定員は、高等小学校高等科二年卒業生を対象とする本科が八O名、尋常小学校卒業生を対象とする選科が二O名の合計一OO名であった。職員の構成は、校長のほか教諭四名と書記一名であり、初代校長には出戸栄松が就任した。潮来町立女子技芸学校では、普通科目とともに裁縫などの実業科目を