ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第三章不況と戦争第一節農村の不況昭和四年(一九二九)十月末のアメリカ・ニューヨーク農業恐慌ウォ1ル街における株価暴落にはじまる世界大恐慌は、以後四年間にわたって世界中を未曾有の大混乱に陥れた。とくに日本の場合は、昭和五年一月に実施された金解禁によるデフレlション政策の真っただ中に恐慌が波及したため、その不況は深刻をきわめ、農村を中心として欠食児童や娘の身売りといった事態も生じ、国民生活は惨状を呈したのである。恐慌の農業への影響は農産物価格の大暴落となってあらわれた。米価は昭和四年の一石当たり三O円台から翌年には一八円に暴落、繭価も昭和四年の一貫当たり七円五七銭から、昭和七年には二円五四銭と三分の一程度にまで低下している。茨城県の場合、昭和元年の農産物総価額は一億二七OO万円、その後、毎年慢性的不況のため年率にして約五パ1不況と戦争セントの減少が続いたが、恐慌下の昭和五年には一挙に約四割減の七八00万円に激減、低下した。さらに翌昭和六年にはほとんど半減の六六八O万円にこの激しい農産物価格の暴落は昭和七年まで続き、その後も第3章景気好転をみることなく慢性的不況が続いて、農産物の総価額が昭和元年の水準をとりかえすのは、昭和十二年以降のこととなる。大正末i昭和前期の茨城県の農業は、明治期の米麦雑穀生産中心の農業から変化して商品作物生産の比重を高めていた。とりわけ、養蚕業の割合が高く、農業総生産価額の二割近くを占めていた。この養蚕業を恐慌が直撃したのである。価格指数からみると、昭和四年を一OOとすれぱ昭和六年には四五となり、実に五五パーセントの暴落にさらされている。茨城県の養蚕業を、まず桑栽培面積からみると、明治四十四年(一九一一)に一万二OOO町歩であったものが、大正十年(一九二一)には一万八OOO町歩に増大、さらに昭和六年(一九三一)には二万八000町歩(県内全畑面積の二二・六パーセント)を数える。しかしこれをピlクとして以後減少、つまり昭和恐慌を契機として、茨城の養蚕業は停滞するのである。いっぽう収繭量の変遷からみると、明治末に一001五O万買、大正期には二OO万貰であったものが、昭和に入って昭和八年には四OO万買と二倍に急増する。とくに恐慌下の昭和五年から八年にかけて収繭量が急激に増大、繭価格の低落を収量の増大によって、現金収入総額を増加させようとする農民の懸命な努力が、数字の上にもあらわれている。このような農業恐慌の激化を農村内部にみると、地主経済を破産の危機に追いやるとともに、零細な小作農民の生活も小作料負担の重みに耐そこで、当時の地主・小作関係にたっ土地制度の改廃えきれなくなる。をめざす小作争議が、全国的に高揚するのである。小作争議の後進地域673