ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代といわれてきた茨城県においても、昭和四年以降小作争議件数は急激に増加の一途をたどり、地域的にも県南の水田地帯から県北の山村、県央現近部の畑作地帯をまきこんで全県下に波及する。昭和元年にわずか八件であった争議件数が、恐慌下の昭和六年には七九件を数え、翌七年には一V00件をこえて、昭和十五年に一八八件とピlクをむかえるのである。争議内容からみても、恐慌下の争議はそれまでのものと異なった機相を呈している。即ち従来の争議が小作料減免闘争で、争議の主導権が小作人側にあったのに対し、恐慌下の争議は、地主の土地取上げに対する土地返還争議で、争議の主導権は地主側にあり、小作人側の姿勢は地主の土地取上げ要求に対して、小作契約の継続をもとめるという消極的、防衛的争議であった。以上のような農業恐慌克服の対策として、まず第一に登場するのが救農土木事業である。これは国や県の予算に「時局匡救土木事業費」を計上して土木事業をおこし、そこに農民を労働者として雇用して救済するというものであった。茨城県でも}の事業によって数多くの橋や道路が建設された。例えば、「いはらき」新聞では、昭和八年十二月十二日から「拓け行くあの道この橋」という連載を五O回にわたって掲載、救農土木事業の成果が報告されているが、その第七回には潮来地方にかかわる「神宮橋と北利根橋」が、「夢の浮橋の実現千葉県に突進する産業道路」という見出しのもと、次のように紹介されている。「象の鼻が鹿島半島なら行方は牙で」県土木課の池内技師の説明は土地の状況をよく見てゐるだけにピッタリくる、しかし象の鼻と牙なら接触してゐる所もあるべきにこの鼻と牙は北浦の湖水に隔てられ延方村からは対岸鹿島町に行くにも渡船によらねば絶対に鉾田町を迂回して約十五里の道をテクらねばならない、こんな話もある、延方の人が鹿島神社へ参拝に来てゐると丁度自宅付近に火事が出来674た、目と鼻の先で焔が水にうつって物凄いがどうする事も出来なかった、というようなわけで県道麻生鹿島線船戸潮来線を連絡するために架橋問題が起り「神宮橋」と「北利根橋」が実現した。鹿島神社の大鳥居の中を通って虹の浮橋をそのまL北浦をよぎり日の出日の入月の出月の入に風光を添へてゐるのが「神宮橋」である、起工が昭和三年七月竣工が同年十一月工費二十三万八千円で全長八百七十八メートル有効幅員五メートル五O橋脚の多いことは日本一で九十三を数え、橋の長いことは全国で五番目、全く地方人にとっては虹の浮橋どころか夢の浮橋だったのである。「北利根橋」は行方郡香澄村と稲敷郡本新島村との間霞ヶ浦の咽喉を施す地点に昭和六年四月起工同七年七月竣工で架設された、工費七万余円長さ百四十一メートル有効幅員五メートル五Oのゲルパi式鋼鉄桁橋に属しゲルパl式としては県で最初の試みとされ)の二橋によって鹿島行方稲敷三郡も一昨年の失業救済事業中の大計画として徹底的な改修を行ひ稲敷郡大須賀村で土浦江戸崎竜ヶ崎線に連絡し佐原町の利根川架橋を待って千葉県に突進する準国道的産業道路を完成した。尚この路線と橋が太平洋防備に重要な役割を演ずる事実は特筆すべきで文武の発祥地でありながらなまなか水運に恵まれたばっかりに橋と道を考慮外に置かれ遂には文化の流れからさへ取り残されてゐた鹿島半島も陸路の交通によって近代的に彩られていくわけである、旧、千石船は湊港を出て鹿島灘から北浦に入り潮来遊廓のきぬぎぬの別れに文帆をあげて利板川を遡り運河を通って江戸入りしたが、今はポプラ並木に水郷気分を満喫しながらタイヤの音も軽く東京入りする時代、と思えば潮来の貸座敷がカフエーに転業するも文無理から