ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
野外にて労働し能はさる時を利用するを以て農家に在りでは恰当の副業といはざるを得ず然れとも遺憾とする所は更に優良なる機械の発明なき事にして若し之れか適当なる発明を見ば更に一層の産額を見るに至らん【大生原村】産業本村の産業は田畑作を以て主業とす故に之れか改良を為し増収を得んが為には地主会村農会県是実行組合の活動を図り指導奨励を以て当業者の自覚を促しつLあり即ち品種改良の為には採種園を設置して多穫ある純系種の普及を図り農家の経済をして円満ならしめんか為には自給肥料を奨励し其の他害虫の駆除を励行して被害の防遇に努め選種の肥培管理及刈取調整に至るまで随時奨励しつLあり然りと離も産業改良の事業たるや頗る広汎にしてEつ一朝一夕に改良の実蹟を顕著ならしむる事項多々あるも漸次改良進歩の趨勢にあるを以て地方開発の為め着々其効果を為しつLあり主業一般に農業にして田畑の耕作に従事し穀寂類の栽培をなす副業本村に於ける副業は養鶏養豚養蚕等にして尚男子に在りでは漁業及工業女子に在りでは廷織及玖縫等なり漁業は頗る重要なるものにして収益年額一人金六十円を算す故に農繁期を除く外殆ど一年を通して行はざることなし養鶏は大規模のものなけれども一般に行はるるを以て収益頗る大なり養蚕業は地勢上上台地に生活する人民に多く低地に生活する人民に少し養蚕は春蚕大部分にして秋蚕飼育不況と戦争者も漸次増加しつ」あり然れども未だ桑園の改良未だ緒に就かず依て秋蚕専用の桑園豊富ならざる以上盛大に発展すべからず養豚も収益多きを以て近年大に普及せり第3章【延方村】地勢概ね平坦にして地味亦官映に気候和順にして天の恵福自ら農業に適するものなり村内農を業とするもの八割以上なり物産の主なるものは米麦寂之に次ぐ野菜には延方重席織は潮来地方に販路有し延方薦と称し本村第一の副産物たり又風土気候養蚕に適するか故に近来養蚕業著しく発達し繭の産額亦多し以上の記述から養蚕業についてみれば、「大字築地貝塚江寺は山野にあるを以て皆何れも農業に従事しEつ養蚕の業亦極めて盛大なり」と記された津知村以外は、「養蚕業は地勢上上台地に生活する人民に多く低地に生活する人民に少し養蚕は春蚕大部分にして秋蚕飼育者も漸次増加しつLあり然れども未だ桑園の改良未だ緒に就かず依て秋蚕専用の桑園豊富ならざる以上盛大に発展すべからず」(大生原村)といった状態であり、むしろ農家副業としての養蚕業の普及が、課題となっていたことがうかがわれる。しかしこのことは、前項で述べたように恐慌が養蚕業を直撃し農村の不況が深刻化する大きな要因であった事実を見れば、結果として潮来町域における農業恐慌の打撃が他に比較して軽少であったことを意味している。むしろ次に見るように町域の農村では不況下にあって藍玖製造を中心に農家収入の拡大さえみせるのである。第V1お表は不況下の昭和十年(一九三五)における町域各町村の米麦生産高を示したものである。また第Vl部表は第Vlお表と当該年の行方郡の米麦価格から米麦生産価額を推計したものである。さらに第V幻表は当時の主要副業であった養蚕業と、廷玖生産について見たものである。これらの表から不況下昭和十年当時の潮来町域の農業生産について検証してみよう。まず前述したように、茨城県内で最も主要な農家副業であった養蚕業は、恐慌以前に比較して全く普及していなかった。現住戸数に対する養蚕戸数を見れば、最低の延方村で四・一パーセント、最高の津知村でも一八・三パーセントで、茨城県全体の二三・一パlセントに遠く及ばなかった(ちなみに行方郡平均は二九・五パーセントであ679