ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代あった。また農閑期の婦女子の労働力が活用され、「今農男一人一年小現作としての収入を計算すると漸く百五十円か二百円で、子女の織る廷の収入と変りない状態」(前掲記事)とまで記されている。近この藍夙生産のほかにも、不況下の潮来町域の農村では、農業経営、Vそのなかから、これも当時の農村生活上のさまざまな対応が見られた。「いはらき」新聞に紹介された「延方村の葡萄栽培」「津知村の百合栽しようが培」「大生原村水原の生聾生産」そして「大生原村荒工の協同組合」を取り上げてみよう。有利な副業】係る果樹プドl栽培本年の成績は頗る良好にて樹百五十本四百余貫【延方村の葡萄行方郡延方村精農家黒須正氏経営に匁収量を示し一貫匁当り八十銭内外の値段を以て取引された然もこれ等は副業にして郡農会にでも各農家の福利増進のため極力郡内に普及奨励しつLある(昭和五年八月二十二日)【輸出向の百合栽培農家副業として好適】行方郡樟知村精農家村会議員根本勘之助氏は昨今の米価惨落繭価暴落不景気が遠慮なく地方農村を脅かしてゐる時に稲作中心の小作的農業経営では収入償はず絶えず生活に追はれ通しなので何か有利な仕事はないかと工夫をこらしてゐた結果百合の栽培に目をつけ外国輸出の黒軸鉄砲百合の栽培を認め品質佳良なる埼玉種(二寸より三寸位のもの)多数を購入し目下研究栽培をなしつつあるが成績頗る良好なので栽培の指針並に品種の分譲をなしこの有利なる斯業を広く普及せしめ地方農家の経済円滑を計る方針であると(昭和六年三月二十五日)【積り積って二千五百円の貯金行方郡大生原村の二十戸が模範組A口】水郷土浦沿岸は葦繁る辺り行方郡大生原村大字水原に荒工と称する部落があるがこの部落は二十戸より成り半農半漁であるが人々は常に団結主義を以て進みつ」あったがこの徹底を期するため682には組合を組織しなければならぬといふので大正十二年四月部落民一致で荒工協同組合なるものを組織した、基本財産造成のため組合費(貯蓄となるもの)を毎月=P五十銭宛として今は積って約二千円の財力となって必要の者はどしどし軽い利率で融通し何れも何不足なく経済の円滑を計ってゐる、目下新時代の要求に伴ひ労力の節約を計るため石油発動機その他新式の農具一切を購入し交互にこれを使用しようと新計画をたてLゐる、この組合の付属事業として主婦会を大正十三年二月に創立した会員は前記二十戸の主婦から成り目的は品位を高め智徳を進め勤倹貯蓄の美風を養ふといふこのAEでは一年に二三回講師を聴し家事研究生活の改善家庭教育の改良等々に関する講演を催すことになってゐる、同会では創立以来基本財産造成のために一人八十銭宛の会費を積立て今日では約五百円の財力となってゐる尚組合の方では毎年二月頃総会を開催し決算善行者の表彰組合刷新向上等の打合せをし終って水入らずの主婦会員の接待で家族的親密な茶話会が催される、現在地方農村が不景気不景気と叫ばれてゐる時に同組合の人々は何といふ不景気知らずの喜楽部落ではあるまいかと羨まれてゐる因に組合長は村会議員豪農浜野是平氏副長小沼元彦氏で将来の発展を考究してゐる主婦会長は浜野たつ子さん副長浜野そよ子さんである(昭和六年四月二十三日)【一万五千貰取りを目標に生聾の採種組合が奮起行方郡大生原村水原の農家三十戸が漸次名声をあぐ】東都にまで名を響かせ県下に誇る香ゆかしい生聾の本場行方郡大生原村水原の聾採種組合が初めて生聾を作ったのは大正元年頃で極めて僅試作としてであった、その後有利な副業として認め水原区民三十余名が種々合議の上昭和