ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
元年十二月頃初めて水原生聾採種組合なるものを組織し共同経営をすることになった、品種の改良に改良を加へ苦心努力は報いられ今や本県以北の組合の生産品に追従するものなき発展を呈し郡農会では数年以来該品種の販売斡旋の労を取るや申込殺到し頗る良結果を粛してゐる、来年度は各農家の福利増進と県外の高価品購入を防ぐ計画で坪数も増加し一躍一万五千貫(昨年度六千貰)収穫の目標を以て郡農会江口技師の栽培指導により森組合長以下組員三十名が専念耕作に従事しつLある尚この有利な副業に鑑み同村青年団は基本財産造成のため試作二反歩を実行してゐる(昭和六年五月七日)【水原聾豊作】行方郡大生原村水原聾栽培は生産品は東部地方にまで販出され即ちワサビ代物の晴好品として食卓を賑わしてゐるが本年度は近年稀に見る上出来、数年間打続きし早天で不作の該品も久しぶりに平年作に比し四割の増収を予想されてゐる(昭和十年十月十九日)このように昭和恐慌下の潮来町域の農村では、不景気に対応して多様な試みがなされた。ただ前述のように水田地帯の町域農村では、恐慌の打撃を最も受けた養蚕業が普及せず、副業として米作の副産物である藁を利用した、藍臥製造が主流を占めていたため、県内他町村に比較して農村不況の深度は浅かった。従って第二章第二節で述べたように、農村不況を原因とする小作争議の発生もなく、不況が従来の農村秩序をゆる不況と戦争がすこともなかったのである。第3章683