ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代現第二節戦時体制下のくらし近V昭和十二年(一九三七)七月七日の夜、北京郊外で発生し戦争の時代た麓溝橋事件をきっかけにして、日本は中国との全面戦争に突入した。発足して間もない近衛内閣は当初不拡大方針を表明したが、軍部の強硬姿勢に押しきられ、戦線は拡大していった。中国では同年九月に国共合作が成立し、蒋介石は南京から重慶へ首都を移して徹底抗戦を続け、中国国民の聞には抗日救国運動が高まった。戦線の拡大により、翌年一月に近衛内閣は「今後は国民政府を相手とせず」という声明を発表し、健儲政権を樹立して和平工作を試みたが失敗に終り、日中戦争は泥沼の長期戦となった。その一方で日本はドイツ、イタリアへ接近し、昭和十五年には日独伊三国同盟を締結した。そして昭和十六年十二月八日のハワイ真珠湾攻撃を契機にアメリカ、イギリスに対して宣戦布告し、太平洋戦争が開始された。)の後、昭和二十年八月十五日の無条件降伏まで、日本は国家の総力をあげて戦争政策を推し進めていった。日中全面戦争が開始されたことにより、潮来地方からも兵士として戦地へ出かけていく人が増加していった。壮丁検査を受けて、二O歳の時に現役兵として徴集されていく人は前と同じであったが、それに加えていわゆる赤紙とよばれた召集令状により、戦地へ赴く人数が増加していった。戦争が日常生活のなかで身近に迫るものになっていった。明治六年に徴兵令が出されて以来、男子には兵役が義務として課せられてきたが、昭和二年には徴兵令に代って兵役法が公布された。しかし日中戦争の長期化と兵士の不足が目立ってくると、兵役法が何回も改正684され、国民を次々と戦争に動員していくようになった。昭和十三年には在営期間の過ぎた現役兵の延長が認められ、昭和十六年には後備兵役という名称を廃止して予備兵役に統一された。また兵役に服する年齢についても改正が行われた。昭和十八年には国民兵役が四O歳から四五歳に延長され、兵役開始年齢が二O歳から一九歳へと引き下げられた。のように戦争の長期化と戦局の悪化にしたがって、国民を根こそぎ動員していったのである。長期にわたる戦争に備えるために、政府は圏内における戦時体制の強化を推進していった。昭和十二年八月には閣議で国民精神総動員実施要綱を決定し、国民精神総動員運動を開始した。}の運動は、「挙国致・尽忠報国・堅忍持久」を三大スローガンとして掲げ、すぺての国民を戦争に協力させるための精神運動を展開することを目的としていた。茨城県においては、同年九月に県国民総動員実行委員会規程を制定して運動を開始した。昭和十二年十月には、国民精神総動員強調週間を設定して運動の趣旨徹底をはかった。同年十月九日付けで帝国軍人後援会茨城支会長、茨城県知事林信夫から各市町村長、学校長、男女青年団長あてにだされた「国民精神総動員ニ関スル件」という通知には、次のような記載があった。今回非常時局-一対処シ国民精神総動員実施セラレ着々統制アル実行ニ入リ特-一来ル十月十三日ヨリ同十九日ニ至ル一週間を強調週間トシテ国民ノ決意ヲ実践セシムルコトニ相成候処其ノ期間中ニ於テ元費節約廃品蒐集等ニ依リ得一フルへキ浄財ハ事情ノ許ス限リ之ヲ出征及応召軍人遺家族援護ノ資-一充ツル為帝国軍人後援会茨城支会-一御寄贈相成様特別ノ御配慮ヲ煩シ度比段御依頼芳得貴意候