ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代この頃の潮来地方の動きは、新聞記事によって知ることができるが、現国民精神総動員運動で提唱されたことはほとんどすべて実施されている。近昭和十二年から昭和十五年頃までの主な動きを「いはらき」新聞から拾ってみたい。麓溝橋事件勃発後においては、全村教育運動を展開していVた延方村が特に積極的に活動を開始した。昭和十二年七月には延方村在郷軍人会がさつそく出征兵士の慰問を実施し、同月には延方村の青年団洲崎支部や洲崎区主婦会、女子青年団が献金を行っている。}れらは新聞に「銃後の熱誠」とか、「銃後の赤誠」として報道されている。七月末には、延方村に住む三O歳以上の村民約一OOO人を組織して延方村壮年団が発足し、根本保蔵が団長に就任した。八月十六日には、延方村在郷軍人会の主唱により大日本国防婦人会延方支部が結成され、西山とくが会長に就任した。延方村ではこのように矢継ぎ早に各種の組織を作り、八月十六日には全村民が諏訪神社へ集合して、事変の戦勝を祈る延方村祈願祭を挙行した。また国防婦人会では、九月になると会員約二OO名が鹿島神宮で武運長久の祈願を行い、慰問袋七五O余を作成して戦地へ送付した。潮来町においては、十一月に大H本国防婦人会潮来町分会を結成し、積極的な活動を開始した。昭和十二年十二月の南京陥落の時には、政府、マスコミあげての大宣伝の下で大々的な祝賀行事が行われた。昭和十二年十二月十二日の「いはらき」新聞は、「歴史的歓喜の一夜万歳々々南京城陥落」という見出しでこの様子を伝え、潮来町では磯山町長以下各団体の長が鹿島神宮で南京陥落の奉告を行い、香取神宮を参拝した後に町内を旗行列し、夜は提灯行列を行ったことを報道している。昭和十三年以後も慰問袋の送付、出征軍人の留守宅を対象にした慰安会、勤労奉仕、国防献金、戦勝祈願祭などが次々に実施された。昭和十三年以後になると、物資の配給制度や公定価格の制度、物資の686供出制度などが次々に実施されていった。配給制度は昭和十三年に綿糸について行われたのが最初であるが、その後続々と配給の対象品目が増加し、生活必需品にまで及んだ。昭和十四年には肥料が配給制となり、翌年にはマッチや砂糖が、そして昭和十六年からは米が配給制になった。物資が不足するなかで、有効に資源を利用しようとして開始されたのが配給制度であったが、日本全国でさまざまな物資が不足していることが明白であったため、物価は上昇する傾向を示していた。)のため昭和十四年十月十八日には公定価格制度が実施された。}れにより物価や賃金を、昭和十四年九月十八日現在の水準に釘付けすることが決定された。しかしこの方策だけで大きな効果をあげることは困難であった。物資が居頭から消えて、闇物資が流通する現象が生まれたのである。闇物資の流通は、潮来地方においても例外ではなかった。米の供出に関しては、昭和十四年十一月に米穀配給統制応急措置令が公布されて、米穀の強制買上げ制度が始まり、翌年には米穀管理規則が公布されて、町村別に割当供出が行われるようになった。そして昭和十七年の食糧管理法の成立により、米穀の供出制度が完成された。この当時「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」などという言葉がスローガンとしてよく使われたが、潮来地方の人びとも文字通りこれを実践していたのであった。日中戦争が泥沼の長期戦となり、日米聞の外交関係が悪翼賛政治体制の確立化していくと、風見章らの近衛文麿側近グループを中心に、挙国一致の新しい政治組織を作っていこうという動きがめだってきた。}うした動きが出てきた背景には、第二次世界大戦におけるドイツ軍の快進撃も大きく影響していた。当時この動きは新体