ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代二、我等は町当局、各種団体各機関一般町民同志一体となりて理想現郷潮来町建設の目的のもとに一致協力し愛町のまことを発揮し以て之が達成を期す近三、我等は魂の結びを成し各自其の分に応じ活動資金能力智力を捧Vげ以て郷土の建設を期すこれは、まことむすび会の方針に一致するものであった。世話人には大久保和夫、加藤利雄ら五名、顧問には羽生藤四郎、石崎喜て窪谷和の三名、参与には可児貞次郎ほか五名が就任した(昭和十六年二月二十二日「いはらき」新聞)。勤皇まことむすび会は、昭和十六年二月二十二日には、麻生町の道場へ行方、鹿島、稲敷三郡のまことむすび会の責任者を集めて会議を聞き、大政翼賛会県支部の状況や行方郡の状況について報告し、同時に対応策を協議した。同年三月十五、十六の両日にわたっては、麻生町のまことむすび道場において行方郡連合壮年団主催の各町村壮年団長講習会が開催された。}の講習会を「いはらき」新聞は、「祈りの翼賛体制行方壮年団長講習会県下に魁けた翼賛の集い」という見出しで報じている。この時にも羽生藤四郎らが招かれて講話を行っている。同じころに、大政翼賛会の町村支部が発足していたのであるが、勤皇まことむすび会と密着しながら進められた行方郡連合壮年団の活動は、このような動きを加速する役割を果たしたのであった。『土浦市史』には、勤皇まことむすび運動が大政翼賛会の組織化を推と記されている。また宇都宮師団指令部が、昭進する役割を果たした、和十六年に発行した『師団情報』第七号は、「翼賛運動-一派生スル翼賛推進団体ノ結成状況」について、「茨城県翼賛運動協議会、まことむすび会、赤誠会等右翼団体ノ指導スル翼賛推進団体ヲ主体トシテ左ノ如ク濫立シアルモ、翼賛会県支部ニ於テ指導シ文ハ直接関係アルモノノ如688シ」と記している(『茨城県史そこに掲げられた茨城県下翼近現代編』)。賛推進団体の結成状況によると、まことむすび会系統の団体としては行方郡翼賛壮年団があり、会員六OO名を擁していることがわかる。れは、まことむすび会の本拠地ともいえる土浦市木田余壮年団の一OO名と比較しても、圧倒的に大きな人数であった。当時の茨城県内にあった翼賛推進団体のなかには、茨城県翼賛運動協議会と、赤誠会系統の古河青年連盟が会員八OO名を擁していたが、行方郡翼賛壮年団はこれらに次ぐ会員数を持っていたのである(『茨城県史近現代編』)。昭和十六年四月二十日には、行方郡翼賛青年隊が結成された。結成式は麻生中学校の講堂で、「我等は翼賛尖兵なり、我等は勤皇挺身隊」という宣誓の下に挙行され、各町村青年隊の代表や関係者約二OO名が参加して行われた。翼賛青年隊は大政翼賛会の前衛部隊として位置づけられた。大政翼賛会は全国の組織を整備し、政府と一体となって国策協力運動を展開していったが、やがて村の段階で国策協力のための活動を、先頭に立って実践していく組織が作られた。昭和十七年一月に結成された、大日本翼賛壮年団(略称、翼壮)がそれである。翼壮は東条英機首相の肝入りで作られたもので、大政翼賛会の指導による実践部隊として位置づけられた。翼壮は「団員の自発的意志による同志的組織」として、二一歳以上の青壮年男子で組織された。行方郡壮年団のメンバーは、}の段階において県レベルの茨城県翼賛壮年団へと、編成がえをされていくのである。昭和十七年一月には茨城県翼賛壮年団の行方郡の役員が決定され、理事には潮来町の大塚震と大久保和夫、顧問には潮来町の藤岡鉱二郎が選