ブックタイトル潮来町史

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概要

潮来町史

代我等は陛下の農兵なり現我等は国力充実の尖兵なり延方村でも、翼賛体制へのすさまじいばかりの傾斜がみられたが、近のような動きを加速させたものとして、勤皇まことむすび会の存在があVったことがわかる。以上、大政翼賛会や大日本翼賛壮年団関係の動きを追ってきたが、翼賛政治体制の末端組織として、日常生活のなかで戦争協力を進める役割を果たしていったのは、部落会や町内会であった。部落会や町内会は、新体制運動が盛り上がっていた昭和十五年九月十一日に出された、部落会町内会等整備要領という内務省訓令により、整備されていくことになった。部落会の下には約一O戸を単位として、隣組が組織されて定期的に常会が開催され、政府の方針伝達ゃ、配給、公債購入、貯蓄、防火・防空・防牒などを行う基礎単位として機能した。青年団や婦人会などの各種団体は、翼賛政治体制のなかで重要な役割を果していたが、青年団は昭和十六年一月に各種の団体を統一して大日本青少年団が中央に設立され、軍人援護、国防訓練、食糧増産運動などに積極的に取り組むものとされた。婦人会も昭和十七年二月に、大日本国防婦人会や愛国婦人会などの組織をすべて統合して、大日本婦人会に統一された。)れは二O歳未満の未婚者を除くすべての婦人を網羅した団体であった。大日本婦人会は軍事援護活動をはじめ、貯蓄奨励、戦時生活確立運動、勤労動員運動など広範な任務をもつものとされた。昭和十七年六月になると、大日本婦人会や大日本青少年団は、大日本産業報国会や農業報国連盟などとともに、大政翼賛会の傘下に入った。こうして官製の国民運動団体と、常会を末端組織とする地方行政組織とを柱とする、翼賛政治体制が確立されたのであった。日中戦争が開始されると、すでに述べてきたように690たび重なる水害日本は国をあげて戦争政策を遂行し、圏内に生活すv}る人々は「銃後を守る」ために必死の努力を重ねて、っー、、。、hvJJそのなかで潮来地方は、茨城県内における翼賛運動の尖兵的な役割を演じた地域のひとつとなった。しかし、水郷地帯である潮来地方は大きな水害により、二度にわたって大きな被害を受けている。」のようすについて次にみておきたい。昭和十三年には、六月二十八日から六月三十日にかけて大雨が続いて河川や湖沼が増水し、七月一日には県内各地で堤防の決壊等により洪水が発生した。また、この年には八月の末にも大雨が降り、八月三十一日と十月二十一日には台風が襲来している。}のように昭和十三年には何回にもわたって水害が発生し、潮来地方でも大きな被害を受けている。このなかでも一番大きな被害をもたらしたのは、六月末からの大雨であった。『昭和十三年の茨城県水害誌』によると、}の時の被害状況は次のようであった。六月末の大雨により七月一日に各地で氾濫を起こした水害は、県内全域で四五名の死者、全潰及び半壊家屋二一一四棟、流失家屋四三七棟、床上及び床下浸水家屋九万一七三九棟の被害をもたらし、被害総額は七三四七万円にのぼった。}れは茨城県にとって、未曾有の大水害であった。潮来地方の各町村についてみると、潮来町と延方村がとくに大きな被害を被っている。居住家屋についてみると、潮来町では床上浸水一O四棟、床下浸水一O八棟にのぼり、延方村では床上浸水七O棟、床下浸水三五O棟にのぼった。さいわいにして、全潰や流失家屋はなかったものの、)れは大きな被害であった。また順調に成育していた水稲の被害をみると第Vl犯表のようであっ