ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代において、延方村は第一位、潮来町は第二位をしめていたのである。現中戦争が開始された後においては、中国へ運ぶ食糧などを入れる玖の需要が急速に高まり、行方郡の農家は大いに潤っていたのであるが、昭和近十三年の水害では大きな衝撃を受けたのであった。Vしかし、水害による大きな打撃にもかかわらず、農家は必死の努力を続けていった。水害の当初は藁工品の生産が事実上不可能となってしまったが、麻生藁工品検査所や行方郡農会の全職員は総動員体制で、製粉会社の空俵を回収し、さらに栃木県、群馬県、長野県方面まで出向いて材料藁の購入斡旋に努めた。農家では、毎日夜遅くまで玖や廷の生産に精を出し、結局昭和十三年度においては予想を上回る藁工品を生産したのであった。麻生藁工品検査所管内の生産高は合計で三五七万枚にのぼり、町村別では延方村が約七三万枚を生産して断然の一位であり、潮来町が約四二万枚を生産して第二位であった。また津知村では約二一万枚、大生原村でも約一九万枚を生産して、上位をしめていた(昭和十四年四月二十一日「いはらき」新聞)。大きな水害は、昭和十六年にも発生した。七月中旬に降り続いた雨により、七月十六日には霞ヶ浦や北浦が五尺以上も増水し、湖岸の水田に氾濫を起こしたのであった。また、七月二十二日に台風が鹿島灘を通過したことも重なって、被害が長期化することになった。)の水害により延方村では五OO町歩の水田が冠水し、行方郡全体では二五OO町歩の水田が冠水した。昭和十三年の水害ほどではないにしても、その被害は大きく、床上及び床下浸水の家屋は、麻生署管内において合計二一八棟にのぼった。同年八月六日には、行方郡連合壮年団が麻生町のまことむすび道場へ集合し、水害対策について真撃な議論を展開した。とくに霞ヶ浦と北浦日沿岸の治水事業に関しては、県会議員で霞ヶ浦北浦治水協会長でもあった須田誠太郎が父祖の代から研究してきた設計図を基礎にして、利根川692下流の水位低下と、霞ヶ浦と北浦を結ぶ大排水路の建設工事を早急に実施するように当局へ働きかけることを決議した(昭和十六年八月十日「いはらき」新聞)。また、発足してまだ日の浅い行方翼賛青年隊も、十一日には行方郡農会において会合し、たび重なる陳情にもかかわらず一向に時の明かない現状のなかで、治水促進と災害復興に関する熱烈な運動を展開していくことを決議した。しかし、中国との長期にわたる戦争を継続してきたこの時期になると、昭和十三年当時と比較して物資の不足はさらに激しさを加えており、根本的な対策が打ち出されることはなかった。水害による米の収穫激減と藁工品の材料不足に苦しむ延方村と潮来町の農民は、比較的被害の少なかった鹿島郡白鳥村(大洋村)や大同村(鹿嶋市)へいって、稲刈りや藷掘りの手伝いをし、その代償として食用の屑藷ゃ、華や臥の材料となる業の交換を希望したが、希望者が多くて応じ切れない状態であったという(昭和十六年九月一日「いはらき」新聞)。国民精神総動員運動や大政翼賛運動が展開され、きびしい国家統制のもとに物資の増産に励んでいた潮来地方の人びとは、二度にわたる水害できわめて大きな打撃を受けたのであった。昭和十七年(一九四二)四月には、大生原村大生と釜谷地北浦海軍航空隊の設立区の水田地帯と北浦の湖岸を埋立てて北浦海軍航空隊が設立され、昭和二十年まで水上飛行機の訓練所となった。この航空隊は、予科練教育を終えた青年と、大学卒業後に志願して海軍へ入った、海軍飛行予備学生の飛行術訓練を主な任務としていた。ここで、予科練について簡単にふれておきたい。稲敷郡阿見村(阿見