ブックタイトル潮来町史
- ページ
- 706/1018
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている706ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは 潮来町史 の電子ブックに掲載されている706ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
潮来町史
代の操縦訓練を施し、実施部隊へ送りだしたのである。現北浦海軍航空隊設置の動きは、昭和十六年に本格化した。海軍の建設計画に基づいて、大生原村役場からは大生と釜谷地区を中心とする約四近O町歩に及ぶ土地の所有者と住民に対して、航空隊建設への協力要請がV行われ、水田や畑の買収と農家七戸の移転が行われることになった。水田で稲作を行いながら生活していた人びとにとって、水田の買収は生活基盤を喪失することにつながる重大なことであヮたが、国家総動員の時代においては抵抗できる筈もなかった。しかし、昭和十六年二月二十日付で大生区長と釜谷区長は、連名で次のような陳情を行っている(釜谷区有文書)。陳情書別紙官有溜池売払申請仕候理由は、今般軍用地の為、大生原大生、釜谷の二部落の田参拾数町歩、畑五反歩余を買上になられ右土地の部落住民は農業が本業にて、前記耕地よりの生産物に依り生活を営み居り、E北浦湖水の漁業権も同様買上られ、副業としての利益も全く失ふに至り九拾余戸、五百名の住民は今後生活に一大恐威を感じる次第に候。就ては、之が対策として、買上地の用水池として使用し居りをる官有溜池が不必要に成りをるを以て、之を公用廃止し、個人営利を目的とせず、生産拡充、産業報国を期する為、両部落民全体にて払下致度所存に候。尚、両部落民は払下許可迄は他に耕地無く、其上植付期も切迫している事なれば、御多忙中恐縮には存候得共、私共の意を扱み、速やかに御処理御許可相成度此之段及陳情候也。昭和十六年二月二十二日代表者大生区長石津徳三郎694釜谷区長川崎辰之助また、飛行場建設が決定されたころの印象を、宮内正紀は次のように記している(「回闘に消えた飛行場」『北浦海軍航空隊のしおり』)。昭和十六年早生稲の出穂も終り、気の早い農家が稲架を組み始めた頃の夕方、近所の大人等が昂った高声で話し合っている傍に、測量の終った赤旗が立っていた。私の屋敷の垣根墳に、航空隊の敷地が決定した瞬間であった。稲架の上から何か叫び出したい様な異様な空気が、少年だった私にも痛い様に伝わってきた。それもそのはず近所の家屋が移転立ち退き、家人からその事を聞かされても、戦争そのものが勇ましく胸に刻み込まれた少年には、戦争礼賛の嵐の中で航空隊建設は甘い夢のような出来事だったと記憶している。水田では稲穂が成長している時期であったため、建設工事は早生稲の収穫が終わる十月になって開始された。大生の台地から北浦湖岸へは軌道が敷設され、一O台ほどの連結したトロッコへ、大量の土砂を載せて機関車で引き、水田の埋立工事が進められた。航空隊の敷地は水田約四O町歩と北浦湖岸約一O町歩の、合せて約五O町歩であった。土砂による埋立作業は人力により行われた。大生の鳳且台の畑地約二町歩には軍用施設の徴用舎が建てられ、徴発された朝鮮人約三OO名が住み込んで、飛行場建設の労働に従事していた。建設工事は順調に進み、昭和十七年四月一日には、北浦海軍航空隊として開隊した。航空隊本部、兵舎、四連棟の格納庫など数多くの施設が作られた。昭和十八年に配属されていた航空機は、通称赤トンボといわれた九三式水上中間練習機が約七O機、偵察機が二機、戦闘機が四機、爆撃機が四機などモあった。軍人も多い時期には約二OOO名に達し、