ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
水上飛行機練習場として十分な機能を発揮していた(『北浦海軍航空隊のしおり』)。一O歳台の後半に入った青年たちは、起床ラッパや消灯ラッパなどの音に合せて起居しながら、水上飛行機の訓練に励んだ。フロートの付いた練習機(赤トンボ)で、北浦から離水して上空で旋回を何回も繰り返し、最後には湖面の定着艇に正確に着水することが要求された。教官が後部座席に乗って厳しく指導しながら訓練を続けられ、上達してくると単独飛行練習を行うようになった。正確な着水は、かなり練習を積まないとできないことであった。日曜日は原則として休日であり、}の日は上陸と称して鉾田や潮来の街へ繰り出した。航空隊は辺部なところにあったため、これらの土地へ出かけていくことは骨のおれることであった。北浦海軍航空隊では初期のうちは上陸の臼に、士宮用のパスを使って潮来まで兵士を送っていたが、そのうち練習生の数が増加したため中止となった。)の後は潮来まで片道二時間の道のりを、歩いて往復することになった。また、近所の民家で休憩する兵士もいた。戦局が悪化するにともない、昭和十九年になると大賀や釜谷の台地に防空壕が掘られて、兵士の避難所が作られた。そこには食糧や生活用品も格納された。昭和二十年になると、米軍機による日本本土への空襲が激しさを加え、北浦海軍航空隊も空襲を受けるようになった。昭和二十不況と戦争年二月十六日には、鹿島沖から飛び立った米軍艦載機が県内各地の航空隊を爆撃した。神ノ池、鉾田、水戸、友部、百里、土浦、谷田部、鹿島などの各航空隊とともに北浦海軍航空隊も爆撃を受けたのであった。第3章の時は爆撃機来襲の情報が入ったため、飛行機と多くの練習生は麻生町白浜や大同村掛崎(鹿嶋市)などへ分散移動していたため、無事であった。しかし航空隊の施設に対してはロケット砲や機銃掃射による攻撃を受け、ロケット弾が指揮所に命中し、機銃掃射により指揮所にいた射手と見張りの兵士が死傷した。大同村へ避難していた練習生たちは、空襲に対して抵抗することができなかった。また昭和十九年の末からは、航空機に乗ったまま敵艦に体当たりしていく特別攻撃隊の出動が開始されたが、昭和二十年になると実用機での訓練が不十分な軍人が、特別攻撃隊に加わるようになっていった。北浦海軍航空隊でも、昭和二十年四月には水上飛行機による、特別攻撃隊へ参加する飛行機を見送るようになっていった。戦局の極端な悪化と物不足により、北浦海軍航空隊は練習航空隊としての機能を果たすことが不可能となり、昭和二十年五月五日付で解隊されて北浦航空基地となり、終戦を迎えることになった(北浦河和会『第十一期海軍飛行予備学生写真集俺達の青春』)。終戦直前の軍人の数は三OO名ほどに減少しており、終戦後の武装解除から戦後処理を経て、同年十月に解散となった。銃後の社会を支えつつ戦争を続けていくためには、軍需物資増産の努力と挫折物資や生活必需物資を不足しないように供給することが不可欠の条件であった。しかし、この条件を満足させることは月日の経過とともに次第に困難になっていった。青壮年の男子は次々に戦場に駆り出され、農村における労働力不足は誰の目にも明らかになっていった。軍需物資を生産するための原料は、最優先でそちらへまわされ、農機具や肥料などの不足も甚だしくなっていった。兵器としV}て使用されたものは次つぎに消耗され、鋼、鉄、アルミニウムなどは家庭や神社、仏閣などからも供出され、身のまわりにあるものは何でも箪需物資の原料にされるようになっていった。695