ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代金属類の回収運動は昭和十六年十一月に開始された。茨城県では十一現月十二日に資源回収大動員法を決定し、県内を七つの地域に分けて、十一月二十五日から回収を開始した。」の時には神社の特別回収要綱と近一般家庭及非指定施設金属類回収要綱の二つに基づき、大々的に回収運動を展開した。神社においては灯籍、鳥居、鈴などあらゆる金属類に及Vび、除外されるものは屋根や社殿の装飾品など数点であり、一般家庭においては、鍋や釜にいたるまで回収することとされた。各地域では青年団をはじめとする各種団体が回収にあたり、市町村長が受領証を金属類の供出者に渡して、指定集荷所へ運搬する方法が採用された。}の時行方郡は鹿島郡とともに第一区に指定され、十一月二十五日から十二月八日まで二週間にわたって回収活動が実施された。金属回収運動は昭和十七年十一月から第二期鋼鉄特別回収が実施されfここの時には地方事務所が主体となって、各町村ごとに大日本翼賛壮年団員や部落会、町内会、青年団、婦人会などに参加を要請し、徹底的に回収することを要望した。行方翼賛壮年団はこの時、郡農会において団長会議を開催し、銅鉄特別回収に全面的に協力し、金属類を徹底的に回収することを決議した。}の時の回収方法は、次に掲げるように念の入ったものであった(昭和十七年十一月二十三日「いはらき」新聞)。各町村毎に担当地区を定め早急撤去供出の勧奨をなすと共に巡回係、運搬係、監視係を設け、一片半塊たりとも残存せしめぎる様回収期を予告、回収当日団員はリヤカー荷車等で各戸を訪問、供出物件を受け集積場に運搬、その物件が輸送機関に引取られるまでは責任を以って監視する供出運動はこの後も続けられ、昭和十八年三月には行方翼賛壮年団が中心となって実施された。その理由は、決戦時となる昭和十八年を迎えて一層の戦力増強をめざすためとされ、今回は必要最小限の生活必需品696を除いてすべて供出することと決定した。)のようにして、金属資源は根こそぎ供出されていったのである。また農産物の増産運動も、きわめて重要なことであった。ご」では戦争末期の昭和十八年一月二十日に、大久保和夫が町長になった潮来町における動きをみておきたい。潮来町では昭和十七年十月まで窪谷和が町長をしていたが辞職し、その後を大久保が継いだのであった。大久保和夫は明治四十一年生まれで、三五歳というまさに壮年の町長であった。佐原中学校を卒業後、家業の鮮魚商を営みながら、大政翼賛運動の指導的立場に立って活躍していた。町長就任時においては、大政翼賛会県協力会議員、行方郡翼賛壮年団総務部青少年団副団長、潮来町青年団長、潮来町翼賛社年団副団長の職を兼務していた(昭和十八年一月二十二日「茨城新聞」)。昭和十八年一月二十四日に初登庁した大久保町長は、全吏員を会議室あいさつの後に「我等の信条」と称する六項目にわたる心得を発表し、吏員にこの実践を強く訓示した。そのうちの最初の二つは次のへ集め、ょうであった(昭和十八年一月二十六日「茨城新聞」)。一、大御心を奉戴して理想郷土建設の祈りに燃え、尖兵となり献身奉皇一意任務を完ぅ、聖戦の必勝を期す二、役場は中核にして町の盛衰国内の充実は、一に我等の奮闘に懸り公吏我等の立場こそ皇軍第一線と連なる戦場なり。故に旧来の役所的勤務を排撃し翼賛勤務の戦いに生き上下敬愛して断固たる団結の下に欣然として各自の業務に精励し、和衷協力相携えて使命達成に遺憾なきを期す大久保町長のもとで潮来町では、食糧増産運動にさらに熱がこめられ