ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
第二節縄文文化の繁栄縄文土器は、人がはじめて科学的な手法で物を作った最土器の出現初の作品である。粘土は水を加えると柔らかくなり、んな形にもできる。思いどおりにできる土の造形は、可塑性をいかして形を作るもので、}れを乾かすと水分が無くなり、粘土の粒子が結合して堅くなる。それを火にかけて四五Oi七OO度の温度で焼くと、粘土内に含まれる物質が硬化して強靭なものになる。理を利用してできたのが土の器であり、縄文土器の成立である。}の原この科学的な原理を、縄文人はどこで学んだのか明らかではないが、粘土のあるところで焚火をしていて偶然見つけた可能性がある。いずれにしても、生、焼く、干すの食生活が、土器の出現によって、煮ることができるようになり、味覚も変化した。縄文人の主な食料は、温暖化によって植物相が変化し、落葉樹が繁茂するようになると、ドングリやクリなどの堅果植物が主食となり、アク抜きにはにたきが必要である。海岸の浜辺には場所に応じて貝がとれ、海には魚など食料資源が豊富になり、貝や魚を沢山煮るためにも土器が狩りとすなどり必要で、とくに、員には「うま味」成分のイノシン酸が多く含まれているため、貝と一緒に煮るとうま味のある料理を作ることができたのである。縄文土器ができてから約一万年間、煮沸用、貯蔵用、運搬用としての第l章深鉢形土器が主体として作られている。約一万年の間に作られた土器の変遷を、早創期(約一万二0001九OOO年前)、早期(約九0001七OOO年前)、前期(約七0001六OOO年前)、中期(約六0001四OOO年前)、後期(約四0001三OOO年前)、晩期(約三0001二五OO年前)の六時期に分けている。各時期に見られる縄文土器は、それぞれの時期の特徴ある表現と、同じ時期においても、地域によって特徴を持つものが作られている。縄文ど時代の土器は、現代のように、窯業生産と流通がないため、地域の中で特徴のあるものが作られ、自分の作った土器が主流であったが、)の時代の土器を広い範囲で観察すると、各時期とも、共通した形や文様がみられる。このことは、人の交流があったことを物語っている。縄文時代早期は、東北地方から九州地方まで砲弾形をした尖底土器(底がとがったもの)がみられ、押型文(丸い棒に丸や三角に掘り込んだものを土器の表面に転がしたもの)が器の表面にみられるものや、同じ形の土器に撚糸文(木の繊維を撚ったものを丸い棒に巻きつけて、土器の器面を転がして付けたもの)がみられるもの、員殻条痕文(二枚貝の腹縁で引いて条痕をつけたり、押捺で文様をつける)や、絡縄体圧痕文(丸い棒に縄条に撚ったものを巻きつけて、回転しないで押捺してつけられた文様)などがみられる。茨城県内では、押型文土器の他に、撚糸文では、利根町花輪台貝塚から出土した花輪台式土器があり、員殻条痕文では、潮来町域からも出土している、野島式土器(細隆起線文と太形の沈線文で文様がつけられ、形は単純な深鉢形をしているもので、横浜市金沢区野島貝塚から出土したことで形式名がつけられた)、鵜ヶ島台式土器(細隆起線文と細い竹管文で文様がつけられ、形は二段の屈曲のある深鉢形をしているもので、神奈川県三浦市鵜ガ島台遺跡から出土したことから形式名がつけられた)、茅山下層式土器(指頭でかかれたような回線ゃ、幾何学的な構図を59