ブックタイトル潮来町史
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潮来町史
代資材の不足を克服、決死勤労の倍加を死守す神風農業特攻隊の結成式は二月三日に素鷺熊野神社で行われた。隊員現は綱領に共鳴する有志とし、各部落単位に作られた組織による結合体が近町の特攻隊であるとした。町中央へは、指導能力のある人から構成されVる作戦本部を置き、隊の運営や活動の指導に当たるものとされた。潮来町神風農業特攻隊は行方郡の広い範囲に拡大し、五月には郡の連合体が結成されるに至った。昭和二十年五月三十日には、日本本土における決戦体制を整備するために、従来の大政翼賛会や翼賛壮年固などの各種団体を解散して、新たに国民義勇隊が結成された。」の日潮来町では、素驚熊野神社において午前五時から結成式が挙行され、大久保和夫町長が隊長となった。国民義勇隊には間もなく郡の組織が作られ、同年六月には大久保和夫が行方郡連合国民義勇隊の隊長となった。昭和二十年になると、米軍機の空襲が頻繁に行われ、潮来地方へも北浦航空隊などを標的にして米軍機が来襲した。このような状況のなかで、新聞等の論調はご億特攻魂」「生産突撃運動」などという、勇ましいスローガンを多く使用するようになっていった。しかし極度の労力不足と資材不足により、いかに大きな掛け声をかけても、昭和二十年になると農業生産の拡大はおろか、前年度の水準を維持することも不可能となっていた。まず茨城県全体の米生産高をみると、昭和二十年は大正五年以来約三0年間における最低を記録している。昭和十三年や昭和十六年には前年に比較して三割程度の減収を記録していたが、それでも昭和二十年よりははるかに多くの収穫高があったのである。潮来地方のうち、潮来町と延方村における昭和十六年から昭和二十年までの米及び麦類の収穫高の推移をみると、第Vlm表のようである。日中戦争開始後における茨城県内の米の生産高をみると、昭和十七年がこの年の数値と比較すると昭和二十年は格段698最も多かったのであるがの差があることがわかる。とくに延方村の米の実収高は、昭和十七年と比較して約四一パーセントの収穫量であり、昭和十八年と比較しても半分以下となっていた。潮来町においても必死の作付け面積確保を行ったが、収穫高をみると昭和十七年の約四六パーセントに止まっている。V}の理由として統計を作成した茨城県は、稲の成育期間における空襲の激化により管理作業が不十分であったこと、肥料が不十分であったことなどをあげている。また収穫調製に関しては)の時期における労力の不足と極度の資材不足により作業が遅延したことをあげている(『茨城県の米』)。こうして昭和二十年になると、食糧生産の面でも絶望的な局面に立たされるようになっていたことがわかるのである。ここでは強い個性を持った、大久保和夫町長のいた潮来町の動きを中心にして戦争末期の状況を叙述してきたが、他の村むらにおいても基本的には潮来町と同様の生活を送ったのである。昭和二十年八月二日には水戸市が空襲を受けて、県庁や一部の官公庁を除いて市街地の大部分を焼失した。圧倒的な軍事力を持つ連合軍の前に立ち向かうことが不可能となっていた日本は、広島と長崎に原子爆弾を投下された後になって、八月十五日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をしたのであった。柳条湖事件以来の一五年間にわたる戦争のなかで、潮来町域の戦死者は潮来町一九八名、津知村七三名、大生原村七四名、延方村一八八名の、合計五三三名を数えた。